政教分離を考える1

 安倍元首相暗殺で、にわかに統一教会への注目があつまり、政教分離問題が議論されている。政教分離法を制定しろなどという意見もでていて、議論がずれるか、あるいは、無意味な議論をしているうちに収束してしまう可能性がある。
 政教分離というのは、国によって形態が異なるという点では、やっかいな論点があるし、日本国憲法でも極めて明快な規定をもっているが、運用は多くの論点があり、かならずしも憲法通りに守られているわけでもない。宗教に関わる憲法の規定は以下の二条である。
 
〔信教の自由〕
第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
〔公の財産の用途制限〕
第八十九条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。
 
 こうした規定が、正確に守られているという実感をもっている人は、おそらく少ないに違いない。だから、基本から考え直していく必要がある。
 
習慣としての宗教性

 本来は、最初に宗教とは何かという問題を、避けてとおることはできないだろう。大嘗祭をめぐって、宗教手の行事なのに、なぜ国費でやるのか、と疑問が呈されたこともあるが、それほど大きなことではなくても、日常的な行為が、実は宗教的背景があるというのは、よくあることだ。例えば、現在食事の「いただきます」の際に、両手を胸のあたりであわせて唱和する方式が、広くおこなわれるようになったが、あれは、たぶん昭和の終わりくらいから広まった風習である。私が給食のときに、そのようなことは一切行われていなかった。日本の伝統的な作法としては、両手を膝において、軽く例をしながら「いただきます」というものだった。おそらく、テレビドラマの影響だと思うが、両手をあわせる作法が普及し、学校の給食時には、ほとんど実施されていて、しかも、教師がそうするように指導していると思われる。ゼミの卒業生で教師をやっている人に、聞いたところ、もちろん行うように指導しているという。あのような作法をしないのは、礼儀に反すると信じている教師はたくさんいる。
 しかし、あれは日本の伝統でもないし、そもそも仏教的作法である。だから、厳密にいえば、公立学校で、教師が宗教的作法を給食時にするように指導することは、憲法違反ということになる。
 大分前のことだが、私がPTA役員をしていたとき、校長が、「祖先を崇拝しない人間はだめです」と多くの人の前で、堂々といったことがある。だが、祖先崇拝は、特定の宗教や宗派の教えであって、祖先を特別視しない宗教はたくさんある。この校長は、特定の宗教の教えを言っているという感覚は、おそらくなかっただろう。それが怖いのである。
 つまり、宗教的意味あいをもっているにもかかわらず、それを意識することなく習慣化されている行為がたくさんあるにちがいない。そして、手を合わせる作法が仏教的であると説明しても、別になんら意に介することもなく、教師たちは続けているようだ。
 今後、日本で学ぶ子どもや生活する大人が増えてくると、少しずつ、実は日常的習慣が宗教的背景があることがわかってくるだろう。そうした際に、柔軟に考える姿勢が必要である。宗教は、決して、教義や修行、聖職などによってイメージされるものから、日常生活で無意識に繰りかえされている動作となっているものまである。
 
宗教とは
 一般的に宗教とは、超越的力の存在を認め、教義をもち、そこに世界の成り立ちについての見方が示されているもの、と私は理解している。もちろん、教義のない宗教もあるだろうし、神道はその一例とされることが多いが、だから神道は宗教ではないという見解も抜きがたく存在している。また超越的存在といっても、唯一神のキリスト教、ユダヤ教、そしてイスラム教の神と、死ぬと多くの人が神になってしまう日本の土着神道における神とは、まったく違う存在だろう。そうしたことに踏み込んで、宗教とは何かを究明することは、政教分離を考える際には、あまり意味がないし、余計であるともいえる。
 だから、政教分離を考える際には、国家が宗教と認めた団体の教えを宗教とするということでいいだろう。日本では宗教法人として認可された組織のかかげる教えが宗教であるとしよう。
 
政教分離 憲法
 憲法の政教分離原則は、宗教組織が国家から特典を受けること、政治的権力を行使することを禁じ、国家は、特定の宗教的行為を国民に押しつけない、宗教教育をしないことであり、また、宗教組織に公費を投入することも禁じている。
 現実的には、これらの規定の運用は、単純に割り切れるものではなく、実際に修正して運用されている面もある。代表的なものは、宗教的な性格をもつ私立学校への補助である。戦後しばらく、この規定のために、私立学校への国庫補助は行われていなかったが、私立学校側の運動によって、現在では国庫補助が行われるようになっている。キリスト教系や仏教系の学校に対しても、差別されることなく支給されている。このとき、私立学校も、認可という国家からの認定を受けており、また、高校までは学習指導要領に準拠した教育を行っているという点では、公立学校と大きな差はないということで、国庫補助が認められるようになったのである。
 安倍元首相が進めた道徳教育は、宗教教育とは別なのかという問題もある。欧米では、道徳という教科は存在しない。より学問的な哲学や倫理という科目はあるが、日本の道徳に一番近いのは「宗教」だろう。しかし、日本の道徳教育と根本的に異なるのは、宗教教育は拒否する権利があることだ。日本の道徳教育は、自分の道徳理念と異なるから受けない、ということは、通常認めていない。イスラム教徒などが申し出れば、どうなるかはわからないが、少なくとも日本人が申し出てもみとめられないだろう。しかし、道徳も一種の宗教的要素をもつとすれば、道徳教育は、国家が強制していることになる。
 
 さて、まったく違う側面からみておこう。政治を昔は「まつりごと」といった。歴史を見ればすぐにわかるように、古い時代では政治と宗教は、密接不可分である。奈良時代の仏教が護国仏教と言われたことは象徴的である。有力寺院の住職は、皇族や有力貴族の跡継ぎからもれた人物だった。もちろん、実家との関係を絶つわけではなく、政治を宗教的に支えていくのである。江戸時代でも、幕府の法令を起草したのは、多くが有力な僧侶である。
 近代社会になって、信教の自由が規定され、その保障としての政教分離原則がたてられた。しかし、信教の自由と思想・良心の自由とは不可分の関係だし、表現の自由ともあわせれば、信仰をもつ人が、その信念にそった政治活動や表現活動をすることは、基本的人権として認められねばならないし、また、そうしたことを禁じている先進国もない。むしろ欧米では、キリスト教系の政党が、大きな力をもっている。
 しかし、ある特定の宗教が、政治的に大きな力をもち、その宗教を基盤とする政党が、教育やメディアに権力的に介入すれば、当然、その宗教以外のひとたちの信教の自由や思想・良心の自由を侵害することになる。学校教育において、君が代を強制することは、そうした侵害の一例である。
 では、こうした困難をどのように解決していったらよいのだろうか。(続く)
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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