吹奏楽コンクールの問題

 夏は高校野球のシーズンという人が多いが、吹奏楽コンクールのシーズンでもある。私は、中学時代吹奏楽部に入っていたが、コンクールにでたことはなく、2年後輩くらいから出ていたと思う。そして、勤めていた大学は吹奏楽の名門で、吹奏楽部に入りたいので志望したという学生も少なくなかったほどだ。毎年金賞を獲得していたくらいだ。
 しかし、私は吹奏楽のそうしたコンクール至上主義に強い疑問をもっていたところ、youtubeの車田和寿氏が、問題を指摘しているのをみた。
 氏の指摘する問題は、コンクールに勝ちたいという目的に集中して練習をすると、ただひたすら揃った演奏、音程が正確な演奏をめざすようになってしまい、音楽そのものが軽視されるということだ。これは、私が属している市民オケにやってくる指揮者で、吹奏楽の指導もしている人は、共通にいうことだ。というよりは、とにかく、正確だが、角張った演奏をするという。

 これは吹奏楽だけではなく、合唱コンクールなども含めた、コンクール主義に向かう日本の音楽教育、特に音楽系の部活に共通の問題だと思う。そして、日本人の観客はミスに対して非常に厳しく気にするというのが、国際的にも知られているところだが、それはこうしたコンクールで育った人が多いからかも知れない。しかし、ミスをしないことより、音楽的な表現力のほうが大事であることは、いうまでもないので、ミスなしを最重要とみなす音楽教育は、やはり改めるべきだろう。
 しかし、車田氏は、それはなかなか難しいという。というのは、たかが中学や高校のコンクールというが、全国的なレベルで盛んに実施されているわけだから、それを支える音楽産業が根を降ろしているというわけだ。まずは指導者、審査員、楽器製造者や販売店、そして、課題曲をつくる作曲家等々、実に多くの関係者が、コンクールで生活を成り立たせている。吹奏楽のコンクールは、ほぼ大学までだが、合唱は市民コーラスレベルまで続く。だから、確かに、コンクールを支え、コンクールに支えられている人たちの「経済」は、構造としてできあがっているわけだ。
 
 だが、やはり、音楽という芸術を、「競争」の手段として実施することは、車田氏が指摘する音楽だけではなく、様々な歪みを生じさせている。その歪みの象徴的なことだが、ある大学の吹奏楽部では、何度も楽器の盗難があるということを聞いた。つまり、コンクールは、出場できるメンバーの人数の上限が決まっていて、たいてい50人だが、有力な吹奏楽部には、その数倍のメンバーがいて、コンクールに出場するための熾烈な競争がある。そこで、楽器を盗んでしまって、競争相手を不利にするというわけだ。これは、実際の話であって、決して作り事ではない。コミックのなかでは、バレエ団で、プリマを争っている相手を怪我させるべく細工をするなどという話がけっこうあるが、強く志望する枠を争う場では、起こっても不思議ではない行為だ。コンクール至上主義がなければ、競争相手を貶めるために楽器を盗むなどということは、まず起こらない。
 
 車田氏は、経済構造ができあがっているから、変えることはなかなか難しいというが、私は、効果的な改善が可能だと思っている。それは、学校の部活を吹奏楽からオーケストラに切り換えていくことである。実際に、千葉県などでは、小学校段階からオーケストラが部活として取り入れられているところがあり、中学まで続いている。その結果として、千葉県では市民オケが盛んである。
 吹奏楽とオーケストラは、単に弦楽器が加わる程度の相違だと思っている人がいるかも知れないが、実は、まったく別物だと私は思っている。そもそも、文化や組織や音楽をする姿勢が相当違うのである。以前にもその違いを指摘したが、再度整理しておこう。
 吹奏楽は、決まったメンバーで演奏し、作品がその団体の楽器編成と異なるときには、メンバーの編成にあわせて編曲をする。他方、オーケストラは、作品の編成が絶対的だから、足りない楽器は、エキストラとして外部から補充し、作品で必要とされない楽器の担当者は、メンバーであっても降り番となって出演しない。この影響で、吹奏楽団は独自ユニフォームをつくったりするが、オーケストラの独自ユニフォームなどはみたことがない。男性は、どこのオーケストラでも、略礼服に白のワイシャツ、黒の蝶ネクタイと決まっている。だから、エキストラは服装の心配がない。小さなことだが、出演者の枠の違いを象徴している。
 吹奏楽はコンクールが存在するが、オーケストラは、決まったメンバーで演奏する習慣がないので、コンクールは成立しない。世界中、オーケストラのコンクールは存在しないと思われる。大学オケの「大会」はあるが、順位をつけるものではなく、メンバーもエキストラオーケーである。
 
 音楽をするモチベーションが違う。吹奏楽は多くがコンクールを念頭においているので、競争に勝つことが、内部専攻でも大会でも強く意識される。勝つために音楽をするのが吹奏楽だと、言って過言ではない。しかし、オーケストラにはコンクールはないし、競争は存在しない。ただ、いいと思ってもらえるか、満足できる演奏だったかが問題である。つまり、ベートーヴェンやブラームス、チャイコフスキーの作品を、可能な限りよい演奏で表現したい、それがオーケストラメンバーのモチベーションである。吹奏楽には、残念ながら、ベートーヴェンやブラームス、ワーグナーなどの永遠の名曲は、ほとんどない。吹奏楽コンクールのために、たくさんの課題曲が新作として作曲されたが、コンクールのあとも、一般に親しまれる名曲として残っている曲があるのだろうか。私は知らないのだが。
 私自身、市民オーケストラのメンバーとして、何度も演奏会に出ているが、そこでの意識は、やはり作曲家との対話であって、他との競争意識などはまったくない。
 
 コンクールの弊害を克服して、ミスのない演奏を競争に勝つために追求するのではなく、音楽芸術を心底楽しむような活動をしていくには、どうしたらよいか。それは、学校の部活は、吹奏楽ではなく、オーケストラにすることだ。これならば、吹奏楽や合唱のコンクールでできあがっている、音楽指導者や楽器制作者等の経済グループを喪失させるのではなく、かえって必要性を拡大する。つまり、音楽の活動で生計を成り立たせているひとたちへの要請が大きくなるのである。形としては、オーケストラは吹奏楽に弦楽器群をあわせたものだ。しかし、弦楽器は管楽器よりも格段に演奏が難しいので、より専門的に指導できる人たちが必要である。そして、オーケストラがきちんと運営される限り、コンクールは成立しないし、また、コンクールがなければ、名曲を演奏することそのものに興味関心、そして感動を求めるようになる。
 私自身は、部活廃止派なので、オーケストラ部創設ではなく、社会教育のクラブとして、たくさんのオーケストラが市内につくられることがよいと思っているが、いずれにせよ、日本人の音楽的基礎を形成するたためにも、吹奏楽からオーケストラへの飛躍が必要な時期になっているのではないだろうか。 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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