ウクライナ情勢が、まったく予測できないような事態に転換している。ここ一カ月のウクライナによる反転攻勢への、ロシア流の反撃が始まったということだろう。
きっかけは、クリミア大橋の爆破事件だが、どうやら、これは単なる口実で、既に以前からロシアは準備してきたと考えられている。つまり、最悪のシナリオとして、核攻撃のための準備として、飽和攻撃を行い、ウクライナの防空システムの調査をするために、ウクライナ全土にミサイル攻撃をしているという見方もある。飽和攻撃とは、最大限のミサイル攻撃を行って、敵の防御能力を確認し、防御能力の弱いところに核攻撃するための準備的攻撃のことだという。それをしたとすると、準備期間が必要だから、クリミア大橋の爆破に対する報復攻撃ではないことになる。クリミア大橋の爆破は、ロシア、あるいはプーチンの得意な偽旗作戦、自作自演の可能性が高くなる。口実作りだ。
半旗にしないと処分の可能性という山口県教委
山口県教育委員会が、国葬当日に国旗と県旗を、通知に反して、半旗にしていなかった県立学校の校長は処分の対象になりうるという認識を示したと、朝日新聞が報道している。しかし、実に奇妙な内容だ。
教委は、各校が半旗にしたかどうかは調べる予定がないといい、永岡文科相は、調査しないから処分はされないと述べている。もちろん、処分されないとしても、その権限を示したことは、実に重大な問題だ。今は調査をしないといっていても、もちろん、半旗にすべきだという住民や政治家たちがいるから、彼らが運動して調査させる可能性はある。そうすると、その力に押されて調査が行われ、処分せざるをえない状況がつくられることになる。また、永岡文科相は、半旗を義務づけないという内閣の方針があるにもかかわらず、それについて触れるのではなく(触れていて記事に書かれていないだけの可能性もあるが)、調査しないのだから、処分もされないので、問題ないなどと逃げている。こういう場当たり的なことしかいわない文科相や教委が、現場をよい方向にリードすることは、まずしないのである。 “半旗にしないと処分の可能性という山口県教委” の続きを読む
安倍晋三の外交成果? 岩田明子「安倍晋三秘録 シンゾーには負けた」
国葬をめぐって、安倍晋三の功績がさかんに議論された。国葬賛成派は、氏を偉大な総理で、大きな成果をあげたと評価し、反対派は、なんら見るべき実績がなかったと評価している。そういうなかで、現在安倍心酔のジャーナリストである岩田明子氏の連載が『文藝春秋』で続いており、第二回が掲載された。「安倍晋三秘録 シンゾーには負けた」である。
全編安倍外交のスタイルの説明と、その結果として功績が書かれているのだが、私には、それをもってしても、実績があがっていたとは到底思えないのである。判断は各人に委ねるとして、紹介しつつ検討していこう。
まずウクライナ侵攻への認識だ。「冷徹で強かな米国という印象を改めて抱いた」というのだが、その理由が以下のように説明されている。
当初は米国はウクライナに冷淡で、ゼレンスキーに退避を勧めたが、拒絶され、国際世論がウクライナ支援に急変したのをみて、対応を変えたのが実態だろうと岩田は書いている。
安倍元首相狙撃の考察14 山上の犯人性を疑うのは陰謀論?
安倍元首相の国葬の前後には、狙撃に関する話題がいくつかでた。そのなかで、真犯人についての疑いを「トンチキ陰謀論」と決め付ける文が掲載され、すぐにコメントしようかと思ったが、あまりに馬鹿げているので見送っていたところ、そうしたナンセンスな文章ではないが、狙撃検証記事が毎日新聞に掲載されたが、これは逆になんら問題意識の感じられない文章であったので、両方を検討することにした。
まず「「銃撃された安倍晋三は偽物だった」「真犯人は別にいる」…なぜ、トンチキ陰謀論に人はまんまとはまるのか」という文章で、掲載は9月27日、筆者は「黒猫ドラネコ」というハンドルネームのひとである。
マスクとヒジャブ・強要と解放
人々の感覚、考え、そして風習には大きな差がある。コロナ流行でのマスクについて、欧米人と日本人では、まったくといっていいほどの対応の違いがあった。爆発的な感染時よりは少なくなっているが、それでも初期に比べれば、まだ感染が多いにもかかわらず、欧米ではほとんどマスクをしなくなっている。しかし、日本ではマスクが義務化されているわけでもないのに、マスク着用を求める施設や店が多いし、それを受け入れるひとが大多数だ。私が大学に勤めていたのは、コロナ前だが、実は、既にかなりの学生、特に女子学生が、冬になるとマスクをしているひとが多かった。インフルエンザ対策なのかも知れないが、それほど流行していない時期でも、マスクをしているので、不思議だといつも感じていたものだ。だから、コロナ流行後に、日本人のほとんどがマスクをするようになったのも、自然な成り行きだったのだろう。
岸田子息の総理秘書官登用 ますます江戸時代に近づく自民党
岸田首相が、長男翔太郎氏を政務秘書官に任命したというので、大分話題になっている。既に2年前から、議員としての岸田氏の公設秘書をしており、しかも、岸田文雄氏の後継者であることが決まっているそうなので、現場での修行の意味もあるのかも知れない。しかし、報道によれば、自民党からも批判がでているそうだ。二世三世議員だらけの自民党からも批判がでるというのは、よほどのことだろう。
岸田首相には、信頼できる側近がいないのだろうなどという憶測もあるが、そして、それはある程度本当のことなのだろうが、やはり、この本質は、こうしたひとのやりくりが、自民党政治家の力量を低下させていること、そして、それが日本の国力の低下のひとつの原因になっていることである。
これは江戸時代末期になって、ほとんどの大名たちが、時代の激動のなかで、何もできずに時代に押し流されてしまったことを思い出させる。というのは、自民党の世襲議員たちが示しているシステム的特質は、江戸時代の藩とよく似ているからである。
玉川・小林・高市氏の発言への責任のとり方
テレビ朝日の人気番組羽鳥モーニングショーのレギュラーコメンテーター玉川徹氏が、安倍元首相の国葬での菅元首相の弔辞に対する事実誤認発言で、謹慎と出勤停止となったようだ。玉川氏が、菅氏の弔辞と電通を関連つける発言をしたときには、あれ?と思った。国葬のセットが電通ではないことは、ニュースで流れていたから、なぜあんなことをいうのだろうかと思っていた。そうしたら、騒ぎがどんどん大きくなり、いまでは玉川氏の辞任要求までネットではでている。
ただ、どうも玉川氏への攻撃には、違和感を感じるのである。まずは、玉川氏の発言を確認しておこう。
全部ではないかも知れないが、大部分はここに掲載されている。そして、これを読む限り、皮肉まじりではあるが、国葬についても、また菅前総理の弔辞についても、感動的であったと認めている。映画の比喩でも、最初はいやいやだったが、見たらよかったというのだから、国葬について、どうせくだらないと思っていたが、仕事上見ざるをえないので見たが、けっこう感動したというわけだ。そして、その感動を生み出したのが電通だったと語ったことになる。つまり、国葬についても、電通に対しても、けなしているわけではない。もちろん、電通が国葬を仕切ったわけではないことは明確なのだから、とんでもない勘違いをしていることは事実だが、間違いを認め、謝罪しているのだから、それで済むような話だろう。電通にしても、これで怒るようなものではないに違いない。むしろ、菅氏の弔辞については、リテラがもっと痛烈な批判をしている。
大谷翔平の偉業 専門化と総合化
ついに大谷選手が、これまで誰も到達しなかった記録に到達した。打者として規定打席回数を、そして投手として規定投球回数を上まわった。双方とも、近年減少しているのだそうで、単独でも到達すれば、信頼されるレギュラーである証なのだが、それを二刀流で到達したのだから、文字通り歴史に残る偉業である。
大谷が二刀流に挑戦するときに、かなり多くの野球評論家たちが、反対して、絶対成功しないと断言していた。江本氏などが代表だ。大リーグに挑戦したときにも、アメリカの評論家たちは、否定的な者が多数だったように思う。それは、個々の選手のその領域での成績を元に考えるからだ。打者なら、ホームラン、打点、打率等々。投手なら防御率、勝利数等々。それをもとに、ホームラン王や最多勝利を決める。そして、そういうタイトルをとれることはまずないから、大谷が成功することはないという理屈があった。もちろん、二刀流そのものが近代野球では無理なのだという見解も多数あった。
松戸の少女行方不明の件で考えること
まだ正式に認定されていないが(10月5日御前)、昨日女性の死体が江戸川の下流で見つかった。おそらく、行方不明になっている当人だと思われる。
この件や以前の山梨での事故についても、いろいろと考えさせられる。
ふたつの共通点は、小学校低学年の女の子が、一人ででかけたということだ。日本は安全な国だということになっているが、私はそれは幻想だと思っている。安全だというとき、主に意識されているのは、犯罪が少ないということだが、これも統計上のことで、実際には統計以上の犯罪が行われていると考えるほうが現実にあっている。というのは、死因が不明な不審死の多くが、きちんと司法解剖されることなく、自殺とされてしまうことが多いらしいこと。軽犯罪が初犯の場合、注意程度で警察は帰してしまうことが多いこと、等々。事件に巻き込まれる危険性について、このように統計で想像されるより大きいものがあるといえるが、より重要なのは事故のほうだ。松戸も山梨も事故の可能性が高い。そして、事故の可能性は、年々高まっているといえる。交通事故だけではなく、上から落ちてきたものにぶつかる等の事故も散見される。松戸と山梨は、ともに落ちてしまった可能性が高い。
トスカニーニ 晩年にテンポが速くなった指揮者
友人がトスカニーニのベートーヴェンを聴いて感激したということだったので、少しトスカニーニを聴いてみようと思い、ニューヨーク・フィルの古い録音を取り出した。なぜかというと、以前放送で聴いて、いいと思った記憶があることと、トスカニーニは晩年になってテンポが速くなった例外的な指揮者だと、アバドが語っていることを思い出したからだ。トスカニーニがニューヨーク・フィルの常任指揮者を勤めていたのは、1930年代だと思うが、ヨーロッパに演奏旅行にいったとき、ヨーロッパの聴衆はショックを受けたと伝えられている。そのときに、このふたつのがプログラムに入っていたはずだ。
ベートーヴェンもハイドンも、確かに、それほど快速調の演奏ではなく、むしろ落ち着いたテンポだ。晩年のトスカニーニとは、明らかにイメージが違う。特に速いテンポのベートーヴェンの4楽章などは、現在の多くの演奏よりも遅めで、堂々とした行進という気分だ。ハイドンの時計も同じ。しかし、余白に入っているメンデルスゾーンの真夏の夜の音楽のスケルツォだけは、非常に速いテンポがとられている。