ついに大谷選手が、これまで誰も到達しなかった記録に到達した。打者として規定打席回数を、そして投手として規定投球回数を上まわった。双方とも、近年減少しているのだそうで、単独でも到達すれば、信頼されるレギュラーである証なのだが、それを二刀流で到達したのだから、文字通り歴史に残る偉業である。
大谷が二刀流に挑戦するときに、かなり多くの野球評論家たちが、反対して、絶対成功しないと断言していた。江本氏などが代表だ。大リーグに挑戦したときにも、アメリカの評論家たちは、否定的な者が多数だったように思う。それは、個々の選手のその領域での成績を元に考えるからだ。打者なら、ホームラン、打点、打率等々。投手なら防御率、勝利数等々。それをもとに、ホームラン王や最多勝利を決める。そして、そういうタイトルをとれることはまずないから、大谷が成功することはないという理屈があった。もちろん、二刀流そのものが近代野球では無理なのだという見解も多数あった。
しかし、いかなる分野でも、専門分化が進むと、逆にその貧弱さも明らかになって、総合化したレベルで力を発揮するひとが登場し、そして、そういう人物が新たな領域を開拓していくことが多い。総合化といっても、本当に全体をカバーするというよりは、複数の分野にまたがるような総合化が多いだろうが、それでも、専門が狭くなっているだけでは、大きなイノベーションは起きない。そういう意味で、専門分化が進むほど、総合化の重要性も高まるのである。
これはスポーツでも同様だろう。まさしく、大谷の示した姿勢は、この総合化の偉業なのである。確かに、大谷は個別分野の成績も優れているが、いずれもトップではない。だいたい三位とか四位だ。しかし、それは専門領域でのタイトルしか存在しないからで、総合力を示す指標とそれによるタイトルがあれば、間違いなく大谷はタイトル保持者にもなるのだろう。おそらく、大谷の活躍が数年続き、二刀流に挑戦する選手たちが増えれば、新たな指標ができるかも知れない。
大谷の偉業は、二刀流をやりきったという実績だけではなく、おそらく野球のいろいろな面への改革意識を高める可能性がある。なぜ、大谷が通常不可能といわれる二刀流が可能なのか。それは彼の練習方法にひとつの原因があるようだ。というよりも、二刀流を可能にする練習法を大谷自身が生み出したというべきだろう。詳細はもちろん、私にはわからないが、明らかになっている情報によれば、次のようなことがあるようだ。食事、筋トレによる頑強な身体作り、肩に負担をかけない合理的な投球練習等々。
詳しいことはyoutubeに、実際の大谷の映像があるので、そちらを参照にしてほしいが、いいたいことは、これまで誰もができなかったことを可能にするために、他人がやっていることとは違う、合理的な練習法を自ら考案し、それを確実に実行しているという点である。そして、それは、専門化した練習ではなく、あくまでも投打を総合した領域をカバーするための練習方法ということだ。
話がずれるが、私が所属していた学部は「人間科学部」で、ここは常に総合化と専門化の問題に直面していた。学部創設の理念は、人文科学の総合的な研究・教育をすることだったが、実際の教員は、特定領域の専門家であり、意識として、その専門領域を超えた研究をして、その成果に基づいた教育を志向していた。特に学部創設時の学部長は、そうした志向が強く、また極めて優れた研究力量をもったひとだったので、初期の学部は総合性意識が高かった。しかし、その後次第に専門分化するようになり、人間科学科の単一学科構成だったのが、臨床心理学科ができ、心理学科ができて、総合性という意識そのものが希薄になっている。私自身、総合性を大事にしたいと思っていたが、実際の研究や教育活動で、それを実現できていたかは自信がない。退職間近になると、総合性を実質化するシステムそのものを否定する教員たちが多数になってしまった。それだけ、総合的な研究・教育は難しいということなのだ。しかし、専門を狭く、深くしていっても、やはり、本当に独創的なものは生み出されにくく、異なる領域とぶつかりあうことから、新しいものが生まれるのではないだろうか。
大谷の活躍は、いろいろな分野で、同じことがいえることを示しているように思われる。勝利投手になった翌日にホームランを打つ、そして、盗塁までする、そういう「投手」や「打者」を超えた「野球選手」であることが、感動を与えている。
ただ、そのことによって、新しい「野球」がうまれつつあるのか、そして、それはどのようにこれまでの野球と違うのか。それはまだ十分イメージできていない。これから形成されていくものなのかも知れない。