まだ正式に認定されていないが(10月5日御前)、昨日女性の死体が江戸川の下流で見つかった。おそらく、行方不明になっている当人だと思われる。
この件や以前の山梨での事故についても、いろいろと考えさせられる。
ふたつの共通点は、小学校低学年の女の子が、一人ででかけたということだ。日本は安全な国だということになっているが、私はそれは幻想だと思っている。安全だというとき、主に意識されているのは、犯罪が少ないということだが、これも統計上のことで、実際には統計以上の犯罪が行われていると考えるほうが現実にあっている。というのは、死因が不明な不審死の多くが、きちんと司法解剖されることなく、自殺とされてしまうことが多いらしいこと。軽犯罪が初犯の場合、注意程度で警察は帰してしまうことが多いこと、等々。事件に巻き込まれる危険性について、このように統計で想像されるより大きいものがあるといえるが、より重要なのは事故のほうだ。松戸も山梨も事故の可能性が高い。そして、事故の可能性は、年々高まっているといえる。交通事故だけではなく、上から落ちてきたものにぶつかる等の事故も散見される。松戸と山梨は、ともに落ちてしまった可能性が高い。
このふたつの件について、思い出すのは、私がアメリカにいったときのことだ。ある家庭に泊めてもらったことがあるのだが、そのとき、母親が息子を迎えにいくから一緒にいかないかと誘ってくれたので、ついていった。歩いて10分程度の友人の家で遊んでいるから、迎えにいくのだということだった。そして、歩きながら、すれ違うひとと、必ず大きな声で挨拶をしていたのだが、「変に思うかも知れないけど、こうやって近所のひととできるだけ親しくしておくことで、子どもが万一のことに巻きこまれたときに、助けてくれるひとを増やしておくのだ」と説明してくれた。迎えにいった子どもは、小学校高学年の男の子だった。日本だったら、まず親が迎えにいかないだろうし、また、そういう意識で近所(といっても、あるいて10分かかる)のひとたちと挨拶を交わさないだろう。アメリカはそれだけ危険な社会なのか、とその時には否定的な感覚で受け取ったのだが、その後、そうした姿勢は日本でも必要なのではないかと思うようになった。
もうひとつ考えることは、子どもの危機認知能力である。子どもが幼稚園にいっていたときには、歩いて20分くらいかかるところにあったので、よく子どもと一緒に、歩いたことがある。そういうときに、子どもを観察していると、たとえば、道路を渡るときに、車がやってくると、大人とは違う行動をとることに気付いた。何かの要因で、道路を、親が最初に渡ったのに、子どもがまだ渡っていない。渡ろうとするときに、車がきた。大人なら、もどって車が通りすぎるのを待つ。しかし、小さな子どもは、むしろ早く親のところに行こうとする。危険の瞬間的な認知と適切な行動判断ができずに、親が安全を保障するものと思って、急いでそこに行こうとするわけだ。我が子でもそういうことがあったし、他の子どもでも、同じようなことを何度もみた。
松戸の件では、おそらく、何らかの理由で帽子が飛んでしまい、それを取りにいこうとして、靴下と靴を脱いで、とろうとしたが、距離感覚がわからず、川に落ちてしまったのではないかと思うのである。そういうときの、空間認識と危険度の認知が、大人とはかなりずれている。というか、未形成ということだ。
交通事故の可能性も、かつては考えられなかったような状況が発生している。90歳の高齢者が池袋のような繁華街を自分で運転して、ブレーキとアクセルを踏み間違えるなどということは、おそらく彼が若いころにはなかった事故だろう。
危険の内実が、残念ながら多様かつ深刻になってしまったのが現代社会だと考える必要がある。大人は、子どもの行動特質をよく考慮した上で、自分のコントロール外に出すことについては、よほどの注意が必要だと思う。大人自身の危険認知能力も、向上が必要なのだが。