年末のベートーヴェン第九が終わり、次の私の所属市民オーケストラの曲目に、ビゼーの「ローマ組曲3番」が入っている。まったく知らなかった曲で、団員もほぼ初めて知る曲だろう。CDもごく3枚程度しか出ていない。不思議なことに、3番といっても、1番と2番があるわけではないので、番号なしに「ローマ」と呼ばれることもあるようだ。何度か書き直して、長い間に変化もして、出版はビゼーの死後だったこともあり、そうした不可解なネーミングになったようだ。演奏困難なので、あまり演奏されないと、ウィキペディアに書いてあったように思うが、プロオケにも難しいほどではないが、アマチュアには、確かにやっかいな部分がある。でも、第3楽章などは、アルルの女のアダージェットを思わせる、非常に叙情的な曲だ。ビゼーがローマ大賞を得て、イタリアに留学したノルマとして、作曲したので、いかにもイタリア的な要素も随所に感じられる。
シャーロック・ホームズ 職場の大事なものを自宅に持って帰るか
犯罪を扱う小説で、事件が解決する場合には、どうしても不自然な要素が残ることが多い。というのは、読者を惹きつけるためには、犯罪そのものが特異で、解決が難しいことが求められる。だから、それを解決するためには、超人的な能力が必要で、ときには、あまりに不自然な偶然などを介在させたり、リアリティが損なわれることが多いのだ。そこで、骨格が同じふたつの物語を比較検討し、リアリティについて考えてみよう。
ひとつは「エメラルドの宝冠」、もうひとつは「第二のしみ」である。ともに、ある重要なものを預かった人物が、職場に置いておくことに不安だったので自宅に持ちかえり、そこで盗難にあう。ホームズが、品物を取り戻すことを依頼され、無事戻るという点が共通である。しかし、その共通性にもかかわらず、印象としてはかなり異なる。
都立高校が校内で塾を
12月26日の読売新聞に、「都立高が塾講師招き「校内予備校」開設へ…受講費用は都教委が負担、経済的格差減らす狙い」と題する記事が掲載された。
経済的な事情で十分な受験対策ができず、進学や希望が薄く進路を諦める生徒を減らす狙いなのだそうだ。放課後や土日、長期休みに実施し、英語と数学中心で、費用は、都の教育委員会が負担する。今後、実施する高校と提携する予備校を選定するという。
記事の最期に、有料で校内予備校を実施している都立松原高校校長の談話があり、教師たちは個々の受験対策まで手が回らない。学習塾の効果的な学習方法で学力をつけ、進学への意欲が高まっていると語らせている。短い記事だが、コメントも既に700を超えている。賛否両論という感じだ。高校の教師は効果的な学習をさせていないのか、という疑問は置いておこう。
安倍元首相銃撃考察16 山上の起訴が決定したが
安倍元首相を殺害した犯人とされる山上の起訴が決まったと報道されている。その前に、山上の鑑定留置の延期措置がとられ、いつまでの延期なのかは、検察と弁護側の駆け引きで二転三転したが、まだ、鑑定留置が終了していない段階での「起訴」という決定は、いかにもおかしな感じを与える。この事件の司法側の対応は、疑問だらけなのだが、またひとつおかしな行為が加わったという感じだ。
そもそも、鑑定留置は、容疑者に責任能力があるかどうかを鑑定するために、取り調べも中止して、鑑定を行うものである。だから、鑑定留置の途中では、責任能力があるかどうかは、判断できないはずである。まして、この山上の鑑定留置は、通常弁護団からの要請で行われるのに対して、検察自らの判断である。弁護側から、責任能力の有無の鑑定が要請されていないにもかかわらず、検察が率先して、しかも例外的に長期の鑑定を決定して実施していたものである。11月に期限が切れたときに、検察は更に延期を要請していた。つまり、結果がまだ十分に出ていないことを意味しているはずである。にもかかわらず、責任能力があると判断して、起訴を決定したというのだ。もちろん実際に起訴するのは、鑑定留置が開けたあとであるのだが。
再論 学校教育から何を削るか12 いじめアンケート1
教師に過重労働を強いている要素として、たくさんの調査と報告書の作成がある。文科省や教育委員会からもたらされるそうした調査と報告は、拒否することは難しい。管理職が処理すれば、教師の労働がそれによって過重になることはないだろうが、多くが個々の教師に課され、報告書の作成も負わされる。教育実践に役に立つ調査であれば無駄ではないだろうが、単に行政的な観点からの調査などは、時間の浪費以外の何物でもない。特に、年3回義務つけられている「いじめアンケート」は、前後の検討も含めて、大きな負担を強いているだけではなく、いじめ対応を逆に難しくしてしまう側面もある。
いじめ問題が、現在の日本の学校教育における最大の問題のひとつであることは、多くの人が認めるところだろう。学校に子どもを通わせている親は、自分の子どもがいじめられていないか、あるいは、いじめの加害者になっていないかを、不安に思っているに違いない。いじめによる自殺という、取り返しのつかない悲劇も引き起こす。いじめは、学校に限らず、また現代社会に限らず、どんな人間社会にも存在していただろうが、今の日本で起きているいじめ問題の深刻さは、例をみないといってもよいのである。
読書ノート『平蔵の首』逢坂剛
題名でわかるように、長谷川平蔵を主人公にした小説である。県立図書館で、何か面白そうな本はないかと探しているときに、大活字本シリーズがあり、この本を見つけた。大きな活字で印刷されているので、私には非常に読みやすくて、一気に上下2冊を読んでしまった。巻末に佐々木譲氏との対談か掲載されており、それによると、長谷川平蔵を主人公にする小説を依頼され、引き受けるにはかなりの決意が必要で、しかも、書き始めてからも、苦労が多かった。池波正太郎の『鬼平犯科帳』が絶対的人気を誇っており、そこで長谷川平蔵のイメージが形成されている。しかも、人気ドラマシリーズもある。その池波版長谷川平蔵とは違うように書かねばならないということで、苦労があったということだ。
長谷川平蔵は実在の人物であり、記録をそれなりにある。そうした歴史的事実をまげることは許されない。実は池波氏は、いくつか細かい点で、歴史的事実をまげて書いている。それを事実に戻すことで、池波版とは違う平蔵を描くことはできる。
タリバン 女性を大学から排除
政権復帰前後には、女性の権利を守ると宣言していたタリバンが、既にその公約を裏切っている。ヒジャブを強制しているし、教育も制限しつつある。中等教育機関では、女子生徒の登校が禁じられて、自宅待機になっていたが、更に、女性が大学に通うことを認めない方針を打ち出した。
そうしたときに、必ずもちだされるのが、イスラム法に規定されているとか、クルアーンの精神などといわれている。しかし、イスラム教徒であり、イスラムの専門家も、女性は教育を受けることはゆるされない、などという教えや法は、イスラムにはないと語っている。また、パキスタンのイムラン・カーン首相は、「女性は教育を受けるべきではないという考えは、イスラム教にはない。宗教とは無関係だ」とインタビューで語っている。
煙草 あれこれ
最近煙草の話題が多い。世紀の変わり目のあたりでは、嫌煙権に関わる話題が多かったが、最近では、嫌煙権は当たり前のことになり、公共の場所での喫煙を規制すべきかどうか、などということは、議論すらされなくなっている。最近は、喫煙をする人は、本当に少なくなった。大変けっこうなことだ。煙草は、高い税金を払いながら、自分の健康をむしばんでいるだけのものだからだ。他人に迷惑をかけるものでもある。
最近の煙草話題のトップは、ポイ捨て禁止の条例があるにもかかわらず、ポイ捨てをしてしまった市長であろう。謝罪をして、給与の一部返納を申し出ているにもかかわらず、まだワイドショーでのネタとなっている。市民にルールを守らせる責任者である市長が、みずからルール違反をしているのでは、市民が怒るのも無理はない。単に煙草のポイ捨てというだけの問題ではない。市長として留まるのかどうかは、まだわからないが、ポイ捨てが禁止されていることを、改めて社会に注目させたことは、反面教師的な効果はあったともいえる。
シャーロック・ホームズ 結末の変更 ギリシャ語通訳・ノーウッドの建築家
小説をドラマ化するときに、まったく原作の内容を変更せずに制作することは、通常は難しい。原作のイメージ通りの俳優を見いだすことすら、そう簡単ではないに違いない。まして、シャーロック・ホームズ物語のように、すべてワトソン博士が、自身見聞したことを記述した形式になっている場合、話の筋を変えずにドラマ化すれば、当然順序などを変更しなければならない。また、原作では省略されている細かな点、例えば大道具小道具などについても、創造する必要がある。
そうした点は除いても、ドラマ制作者の意図によって、原作の内容そのものに変更が加えられることは、普通にみられるといえるだろう。そして、そのことによって、原作の不備を補ったり、あるいは、新たな矛盾を作り出したりすることがある。
続いて制作されたと思われる「ギリシャ語通訳」は、付加した内容が、むしろ不自然さを生んでいるのに対して、「ノーウッドの建築家」は原作の欠点を見事に補う結果になっている。その対照的な面が面白かった。
教師の休暇 アイドルの公演をみにいくことは?
教師たちが、過重労働を強いられているというとき、労働時間や労働内容の過重であることももちろんだが、休みをとりたいときにとれないことも、過重労働感を増幅しているといえる。教師は、子どもの授業を絶対に休んではならないというような感覚があり、それが、休みをとることを躊躇させる。
もちろん教師にも、法律で定められた「有給休暇」が認められているが、それを自由に、法律通りに取得できる学校は、まずないといえるだろう。文科省ですら、教師の過重労働を軽減するための一方策として、有給休暇を夏休みに集中的にとらせて、労働時間と休暇の辻褄をあわせ、その分、学期中の労働量を増やすような政策を打ち出している。普段の労働は、少しも改善しないにもかかわらず、別にとる必要がない時期に、有給休暇をとらせて、ちゃんと休みがとれているという、はっきりいえば、ごまかしの政策である。