2024年度から、文科省は小中の英語から、デジタル教科書を段階的に本格導入する方針を固めたそうだ。
「狙いは教育DX? デジタル教科書「本格導入」の先にあるもの」
記事によると、デジタル教科書の導入によって、
・教育課程の在り方の見直し
・学校の役割、教職員配置や勤務の在り方の見直し
・子どもの状況に応じた多様な学びの場の確保
・教育支出の在り方の検討
が課題となるのだそうだ。これらが、本当に子どもの学習を促進するように見直されるのなら、大いにけっこうだが、そうなるのかどうかは、かなり疑問である。
デジタル教科書の提言については、昨年6月にだされた「デジタル教科書の今後の在り方等に関する検討会議」の第一次報告によって示されている。しかし、この報告書を読む限りは、デジタル教科書とは、とうていいえないものをデジタル教科書と規定して、そこから活用方について検討がなされている。では、その規定とは何かというと
「デジタル教科書は、平成30年の学校教育法等の一部改正等により制度化され、紙の教科書の内容の全部をそのまま記録した電磁的記録である」https://www.mext.go.jp/content/20210607-mxt_kyokasyo01-000015693_1.pdf
というのである。これでは、デジタル化されたテキストとしての意味がない。内容を紙で見るのではなく、画面で見るというに過ぎない。
20年近く前だと思うが、私が大学での学部紀要委員だったときに、紀要の在り方をデジタル化することを提案して、かなりの反対があったのだが、説得して実現したことがある。それまでは、紀要として印刷に使用したファイルをそのままPDF化したものを、ホームページに掲載していた。これは、上記デジタル教科書の規定と同じである。私の提案は、紀要用に作成したファイルをPDF化するのではなく、最初にPDF用にファイルを作成して、できたものを印刷するということにしたのである。そして、ホームページに掲載するのは、最初に作成したPDFファイルである。
同じではないかと思う人もいるかも知れないが、それまでのものは、紀要をパソコンやタブレットでも読めるというだけのことだが、最初にPDFファイル(ホームページ用)を作成するときに、マルチメディア機能を埋め込むことができるようにしたということだ。だから、リンクを貼れるし、映像や音声をいれることが可能になる。パソコンで見るときには、映像や音声を再生できるが、紙媒体では再生することができない。引用に、インターネットで表示されている文献を指定するときに、以前の形式だと、URLを打ち込む必要があるが、新方式だとクリックすればいいだけだ。引用文献の確認が簡単にできるようになる。
学術論文の未来の形はそうなると確信して、反対を押し切ったのだが、残念ながらその趣旨を理解してくれた教員たちはほとんどおらず、理解してくれたのは、担当の図書館司書たちだった。そして、この機能を使った論文を書いた人は、私以外に一人しかいなかった。しかし、現在の理系の学術誌は、こうしたことが当たり前になっていて、紙媒体で読む人のほうが例外的で、パソコンで読むのが普通である。そこには、多くの写真や映像が掲載可能だからだ。必要ならば、データの分析結果だけではなく、生のデータを掲載することもできる。
私の所属学科は心理系だったために、心理の先生たちに、実験のデータを分析する際、心理学では、かなり因子等を操作的に扱うので、別の研究者は違う因子を見いだすかも知れない。だから、生のデータを掲載しておいたらどうかと提案したことがあるが、一顧だにされなかった。正直、わかっていないなあ、と感じたわけだ。
つまり、いいたいことは、デジタル化するということは、ファイル上で可能なことを、最大限活用することなのだ。単に紙で印刷したものを画面で見るだけなら、デジタル化などというのもおこがましいといえる。
これを英語の教科書で考えてみよう。
通常の教科書では、文字やイラストが書かれているだけだ。しかし、それをPDF化しても、ほとんど意味がないことがわかるだろう。小中学校の英語は、ほとんどが会話だから、その会話を演じた映像、そして、練習のためのやりとりの場面、あるいは発展形の練習など、様々な場面をデジタルなら付加することができる。最低でも、そうした内容を加えたものを、英語のデジタル教科書として作成すべきものだろう。
しかし、そうすると、ほとんどそうした内容に近い英語の教材は、ファイルの形で存在している。世界各国で使用され、評価が高い語学教材を使用すればよいという考えも起きる。わざわざ教科書でなければならない理由はないのだ。
あるいは、「社会科」などを考えてみよう。社会を学ぶ素材などは、インターネット上に無限にあるといってもよい。多くは無料で公開されている。本当に有用な教材を想像すると、教科書には、ごく簡単な課題が書かれ、そこにどのような資料が必要かの一覧があり、その資料の代表的なものにリンクがつき、更に「このような語で検索してみよう」などという検索欄がついている。そして、課題に対するいくつかの、そして異なった文章が最後に出ている。これらを参考にして、自分なりの意見をまとめてみよう、というような形で、章が終り、次の章にいく。
こんな形の教科書が、役に立つような気がする。そして、これこそ、デジタルの機能を活かしたものだ。
残念ながら、文科省のデジタル教科書検討には、こうしたデジタル的要素を活用しようという姿勢は、ほとんど感じられない。なぜなら、現在の教科書行政の基本を、文科省はやめるつもりがないからだ。それは、「検定制度」である。検定制度こそ、文科省が初等中等教育に対する国家的管理を実現する軸になっている。国家が教育内容を管理するという姿勢である。しかし、検定制度こそ、教科書の内容をつまらなくしてきた要因であるたけではなく、デジタル化した教科書を作成することに制限を加える制度でもある。検定制度をやめない限り、本当に役に立つデジタル教科書などは作れない。このことの確認こそが、出発になる。そして、いくつかの教科を除いて、デジタル時代には、教科書などというものが不要なのである。
国家が教育内容を決め、それにそった教科書を検定して、同一地域では同一教科書を使用する、などという時代ではないのだ。