子どもの信教の自由 学校教育と宗教二世問題

 統一教会をめぐって二世信者の問題がクローズアップされているが、もちろん、これは統一教会だけの問題ではない。むしろ、教育との関わりについては、エホバの証人などのほうが、これまで問題になっていた。しかし、その問題の認識の方向は、統一教会とは違っていた。 
 これまでの学校教育におけるエホバの証人の問題のされ方は、信教の自由を守る立場からだった。有名な事件としては、神戸高専で、体育の剣道の授業を拒否したエホバの証人の生徒たちが、言及留め置き、そして翌年退学になった事件である。剣道の授業を強制するのは、憲法で保障された信教の自由を侵すものだ、として提訴し、一審では原告が敗訴したが、二審、最高裁は、原告の主張を認めた。剣道の授業が、高専で学ぶ上で必須とはいえず、退学というのは、学校の裁量権の逸脱であるとした。つまり、ここでは信教の自由を認めた形である。

 エホバの証人に関連する似た事例は、他にもあるが、エホバの証人に限らず、イスラム教徒の給食問題など、宗教に関係する学校での措置は、いくつかの領域に関係している。そして、方向性としては、信教の自由を守る形で処理されるようになっている。というより、無駄なトラブルは避けたいというのが、教育行政側の本音であるように思われるのだが。
 
 しかし、今回の統一教会をきっかけとした問題提起は、これとは違う方向を示している。現在の二世信者問題として、毎日新聞11月7日に次の記事が掲載されていた。
「「親から体罰、希望校を受験させてもらえず」 エホバの証人3世訴え」
 エホバの証人の三世信者であった人が、国会内でのヒアリングで次のように語ったという。
・3歳のころから週3回集会に参加し、居眠りなどをすると、トイレで体罰を受けた。
・保育園や幼稚園にはいかなかった。
・クリスマス、七夕、誕生日会などは禁止された。
・校歌斉唱や運動会の騎馬戦に参加できなかった。
・中学受験もさせてもらえなかった。
・先輩との交際を不道徳だといわれ、家出を繰りかえすようになった。
 
 ここで、運動会の騎馬戦に参加させないというような要請は、エホバの証人の親から申請があれば、おそらく認められている。騎馬戦だけではなく、「競争」に関係する体育は参加させないのが、エホバの証人の方針だ。親の意思だけが反映していたと気付かせたのが、今回の二世・三世信者の訴えだ。子どもが騎馬戦に参加したいという気持ちをもっていたら、どのように処理されるのが、適切なのだろうか、という問題になる。イスラム教徒の子どもが、給食で豚肉料理を自分も食べたいといい、親がそれを拒否していたらどうなるのか、ということにもつながる。
 神戸高専事件以来、教育行政は、信教の自由をできるだけ阻害しない形で対応してきた。申請するのは親だから、騎馬戦は参加させないし、給食は別メニューにする。しかし、二世問題は、親が子どもの意思を無視して、親の価値観を強制するという問題であり、それは間違っているという見解が、二世信者から提起された。
 エホバの証人は、強い意思をもつ親であれば、子どもが交通事故にあって、輸血が必要でも、断固それを拒否し、子どもが死亡する事例も、アメリカで複数おきて、大きな問題となっていたほどだ。事故にあって、輸血が必要な子ども自身は、意思表示できないから、親の拒否に、医師たちは当惑せざるをえなかった。程度の差はあるが、問題構造は同じである。
 
 まず考えねばならないのは、子どもは親の親権に服していることだ。通常、子どもの意思は親によって代表される。親権の内容として、子どもの教育に関することを決める権限が含まれる。だから、学校運営者は、親の意思を無視することはできない。近年、親の意思尊重の傾向は強まっている。以前は、親の意思を考慮せずに、教育委員会が決めていたことも少なくなかったが、現在では、そのようなことをしたらトラブルになる。
 14歳未満の子どもは、法的には無能力とされていることも、この傾向を強める。
 では子どもの意思を無視してもいいのか。子どもの権利条約における「子どもの意見表明権」を尊重する必要もある。子どもの権利条約をもちだすまでもなく、司法の場で子どもの意見が求められることはある。両親が離婚することになり、どちらの親権に服することを望むか、などは、以前から子ども本人の意見が聞かれるようになっている。
 更に、考慮すべきは、親に親権があるとはいえ、虐待に相当することは許されない点である。先の三世信者の訴えのなかで、集会で居眠りをすると、体罰を受けたというのは、明らかに虐待にあたる。かつてあった「体罰もしつけのうち」という考えは、現在では通用しない。先輩との交際が不道徳だとして禁止するのも、精神的な抑圧と考えられる。しかし、保育園や幼稚園にいかせないこと、中学受験を認めないことは、現在の社会的感覚からみれば、穏当ではないといえるが、それは親権の乱用であり、虐待だといえるかは疑問である。クリスマス会や誕生会の禁止も、親権に含まれるといえば、間違っているとすることは難しい。
 
 結局、子どもの教育を決定する権限と、子どもの意思の尊重、意見表明権の折り合いのつけかたになる。特に、学校内での活動、行為については、折り合いの原則は重要であろう。
 子どもは騎馬戦をやりたいが、親は信仰の立場からやらせないと学校に申し入れる。近年の行政のあり方は、先述したように、信教の自由を認める観点から、親の申し出を受け入れる傾向が強い。しかし、三世信者の訴えを無視することはできまい。
 結局、親権のなかに、子どもの信仰を決める権限があるかということに帰着すると考えられる。信教の自由を厳密に考えれば、親といえども、子どもの信仰を決める権限はないというべきであろう。少なくとも、子どもが嫌がる宗教的行為を、親が強制する権限がある、とすることは、信教の自由の原則に反する。学校教育の内容について、親の意思(信仰)と子どもの意思が異なる場合、信教の自由を尊重することは、子どもの意思を尊重することでなければならない。ただし、こうした場合、教育委員会や学校管理者が、親に説明する責任があるといえる。
 学校の教育内容は、社会全体として必要性を認めているものである。(争いはあるが)ある宗教が、特定の教育内容を受けるべきではないとしていて、子ども自身が、その信仰をもっているなら、親との齟齬は生じないから、これまでのように、信教の自由を尊重する立場から、その教育内容を受けないことを容認することになる。しかし、子ども自身が、その教育を受けたいと思っているとすれば、それは、その信仰を、その点についてはもっていないことを意味するから、親といえども、信教の自由を侵して、嫌がる子どもに宗教的立場を強制することはできないと考えるべきである。
 これまで、宗教的理由から、特定の教育内容を拒否することについては、親の要請を認めてきたが、これからは、当人の意思を確認することが必要となるのではないか。そして、子どもにも信教の自由があることを、親に示す必要がでてくる。
 
 学校外の家庭生活については、子どもは親の意思に従わざるをえないのが通常だろう。家庭での子どもの意思が無視されないようにするためには、子どもが容易にアクセスできるソーシャル・ワーカーが、より整備される必要があるように思われる。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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