教科書選択の不正から考える1

毎日新聞が、精力的に、教科書選定に関する不正行為について報道している。
 要するに、4年に1度の教科書選定の際に、賄賂を贈ったり、接待する不正行為があったということだ。教科書を選定する委員を聞き出す、委員に働きかけるという選定そのものにかかわる点と、教科書作成過程に、現場の教師たちに意見を聴取するかたちで謝礼をするなど、いろいろな手口がある。
 しかし、現場の教師に意見を聞いて、その謝礼をするなどということは、別におかしなことでもないし、禁止するようなことなのかという考えのひともいるだろう。そして、教科書選定にかかわる不正行為は、今に始まったことではなく、現在の教科書検定・制定制度ができて以来、ずっと起きていることである。また、検定制度のないアメリカなどでは、別の教科書をめぐるトラブルがある。国民教育制度のなかで、決められた教科書がある限り、なんらかの形で、世間から批判されるような事態が起きることは不可避なのかも知れない。しかし、だからといって、放置してよいことではない。

 
 さて、公立義務教育学校の教科書は、全国500程度の採択区に分かれ、そこに採択のための委員会が設置される。ひとつの採択区には複数の市町村がはいり、そこで決定された教科書は、採択区全体で採用される。従って、採択されれば、4年間自動的に使用され、採択されなければ次の4年目まで、一冊も使われることはない。そこで、熾烈な採択のための営業活動が行われるわけだ。民間企業(出版社)と公務員が対峙するのだから、何かの金銭や贈答品の授受が行われれば、贈収賄になる。
 現在の教科書を前提に考えれば、不正を減らすためには、採択区の制度をなくし、学校選択にすることだ。戦後、教科書無償制度(義務教育)ができる前までは、教会書は学校ごとに選んでおり、使う教師たちの意思が反映されていた。だから、教科書会社が、自社の教科書を選択してもらうために、営業活動をしようとしても、内容の宣伝以外には、あまりやりようがなかったのである。金品を配るにしても、あまりにも対象が多すぎるからである。
 もちろん、不正が皆無だったわけではない。小説ではあるが、松本清張の『落差』にそうした不正が赤裸々に描かれている。しかし、基本的には、様々な面で、学校採択は、健全な状況を生み出していた。
 
 教科書の学校採択は、いくつかの副産物を生んでいた。
 第一は、教師たちが複数の教科書を吟味し、どれがよいか、どれが自分たちが教える子どもたちに適しているかを考えるきっかけになった。つまり、教師たちが、「使う立場から主体的に」教科書を選んだのである。当然、その結果として、教師たちの教材に対する理解が深まっていった。
 第二は、多様な教科書が出版されたことである。実際に、ひとつの教科で100近い教科書が作成されていたとされている。地域や教師たちの教育観によって、好ましい教科書のイメージは多様なものだろう。現場の意思を尊重すれば、多様な教科書が作成されるべきなのである。
 逆に、教科書無償になって、採択が教師たちではなく、代表となり、同一市町村内は同じ教科書が使われることになった。当然、教師は教科書をしっかり検討する機会がなくなり、いい教科書とはなにかを考えることが難しくなった。教師の熱意を奪ったのである。そして、広域採択になることで、教科書は淘汰され、現在では同一教科4~5程度の種類しかないし、また、会社が違っても、驚くほど似た教科書になっている。数社しかないのだから、様々な取り決めがなされ、そのなかで作られるからである。例えば、イラストや写真をいくつ使うかなどである。
 
 しかし、こうした点は、現行の制度を前提の対策である。21世紀にふさわしい教科書を考えれば、かなり根本的に「教科書とはなにか」という点から、点検していかなければならないと思う。
 教育の歴史は長く、人類発生以来、生きていく上での技法や規範を教える行為は存在したと考えられるが、文字を使った学校教育は、文字文明が成立して以来のものである。しかし、学習者が共通の教科書を使うようになったのは、紙が大量に普及し、印刷術が発明されてからであろう。そして、現在のように、教科ごと、学年ごとに教科書が使われるようになったのは、国民教育制度としての義務教育が成立して以降だといえる。つまり、高々150年程度の歴史しかないのである。教材のあり方は、情報伝達の方法や教育制度によって、教材の形で多様に変化してきたのである。学び方の多様化、個別化が進み、情報社会の発展としてネット社会になった現在、教材の形も大きく変化して当然である。
 ずいぶん前のことだが、「教科書を学ぶ」のか「教科書で学ぶ」のかという論争があった。学校では、「教科書を学ぶ」意識が強いだろうが、教育学的には、「教科書で学ぶ」が正しい。つまり、教科書は学ぶ手段であり、ひとつの材料である。当然教材はひとつである必要はないし、様々な立場からの見方が反映されたものでも構わない。というより、そのほうが望ましい。「教科書を学ぶ」というのは、国家が定めた特定の知識を押しつけ、更に、貧しい学び方を強制していることになる。従って、情報手段が印刷物より、ネットを介することが多くなっている状況に応じた、教材のあり方が模索される必要がある。(つづく)
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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