ハロウィン事故に思う 誰に責任があるのか

 韓国ソウルの繁華街イテウォンで、群衆雪崩といわれる現象によって、150人以上が亡くなり、日本人女性2人も含まれている。ハロウィンで集まった人々が、狭い路地に双方から多数移動し、動きがとれなくなったひとが圧死したという。似たような事故は、2001年の兵庫県明石市での歩道橋でも起きている。こちらの死亡者は11人だった。
 いずれの事故でも、あとで警備体勢の不備が指摘された。確かに、こうした事故が起きる以上、警備が万全でなかったことは間違いないが、事前に、どの程度の人数が繰り出されるのか、どこにどういう形で集中して、危険な状態になるのか、もし、危険な状況になったときに、どのような対策がありうるのか、等々について考えてみると、万全な対策は、かなり難しいのではないかと思わざるをえない。そして、責任は、決して警備態勢、つまり主に警察だけではなく、他にも負うべきところがあるように思われるのだ。

 
 ここのブログで度々書いているように、私は、外における危険認識が、かなり他人よりも強い。ホームで前に並ぶことは決してしないとか、歩いているときに、信号が青になってから歩きだすのではなく、止まるべき車が止まってから歩きだす。もちろん、たくさんの群衆が集まり、集団心理が働くような場所にはいかない。学生時代が、大学紛争の時代であり、学内に暴力が蔓延していた時期を過ごしたからだろうか。一度だけ、地方での花火大会のとき、家族4人で見にいったことがある。ひとはたくさんいたが、密集するようなことはない、中心からはかなり離れたところだった。その後は、一度も、群衆の集まる場所にでかけたことはない。そういう人物による感想であることを、まずは断っておきたい。
 
 私が若いころは、ハロウィンの行事などは、ほとんど行われなかった。ネットで検索すると、行われるようになったのは1980年代であり、盛んになったのは90年代、そして、それは商業主義と結びついている。日本のバレンタインデーが、チョコレート企業が、チョコレートを売るために、メディア使って盛り上げたものだというのと似ている。
 ハロウィンは、もっとたくさんの業種がハロウィン騒ぎを演出しているようにみえる。お菓子、衣類、そして、飲み物などのメーカーだ。彼らは、たくさんのひとが、ハロウィン騒ぎに出てくれば、それだけ儲けている。
 もちろん、こうしたことは、どの国でも、昔からあったに違いない。日本の地方の祭や、盆踊りなど、祭に伴う商品がたくさん売られる。しかし、そうした商品は、地域産業が主に担っているし、メディアによって大々的に宣伝されることも、一部の祭を除いて、ない。
 ところが、クリスマス、バレンタインデー、ハロウィンなどは、大きな企業とメディアのミックスによるイベントになっている。メディアもさかんに宣伝し、そして、効果があがれば、利益があがる仕組みである。
 
 率直にいって、私からみれば、こういう行事にでかけるひとは、企業やメディアに操られていると感じざるをえない。ずっと古くからある伝統的な祭などは、祭の主催者がはっきりしており、危険な祭もあるから、そういう場合の対策もしっかり練られている。
 しかし、ハロウィンは、誰かが主催しているわけでもなく、なんとなく社会的な雰囲気として、どこかにたくさん集まるようなムードが作られ、そして、そこに実際たくさんのひと、特に若者が集まって、主催者もルールもない催しだから、かなり自由に、やりたいことをやりだす。好きなひとにはたまらない場なのだろう。明らかに、メディアが煽っている。
 
 私は、若いときであっても、絶対にいきたいとは思わなかったろう。
 祭は、ほとんどが特定の宗教と結びついているものだが、私は、まったく宗教を信じていないので、祭に出かけていく気持ちにもなれない。
 そうした私からみたとき、ハロウィンで起きた事故は、誰に責任があるのだろうか、と考えると、当然、安全や治安に責任をもつ警察に、かなりの責任があることは確かだ。しかし、死亡したひとの遺族が、警察に賠償責任を求めたときに、国家に賠償責任が生じるかどうかは、ハロウィンの事故については、疑問だ。主催者がいれば、主催者から安全確保の要請があり、計画に従って警備が行われ、十分に実行されずに事故が起きれば、賠償責任も生じるだろうが、ハロウィンは主催者がいないから、警察に対する警備要請があったわけではないだろう。何が起きるか、誰にもわからない。警察や自治体として、ある場所に多数集まって危険な場合もありうるから、事前に対策をたてて警備を自発的に行うものなのだと思う。遺族の当事者は別の考えもあると思えるが、私は、自発的な警備をしている警察に、賠償責任を負わせるのは筋違いではないかと考える。警察には、次の機会に警備をしっかり行えるように、体制作りをする責任がある。
 
 問題は参加者の責任だ。いかに多数が集まったとはいえ、呼吸困難になるひとが複数でるほどに圧力が高まるのは、先に行けないのに、行こうと圧力をかけるひとが多数いるからだ。今はいないと思うが、以前、ラッシュの酷い電車のホームには、「押し屋」というひとがいた。一杯で乗れないひとを、後から押して、無理に電車に乗せてしまうひとたちである。りっぱな「仕事」として行われていた。しかし、やがてそれは危険だというので、無理に乗ろうとするひとをやめさせる「剥がし屋」に代わった。ただし、押し屋によって押されても、死者が出たということは聞かない。だから、死者が多数でたことは、よほど強い圧力がかかったのであり、かなり集団的に押したひとたちがいたに違いないのである。誰であるかを特定することは、現在では様々なひとが映像を撮影しているし、防犯カメラもあるから可能だ。
 もし、被害者遺族が、そうした映像を証拠として、危険な状況になっているにもかかわらず、あえて、自分も進もうとして、強く押した、それが死の原因である、と訴えたら、それを認めるべきなのだろうか。私は、認めるべきだと思う。そうした責任を認めることによって、群衆が集まったときに、自己抑制的に振る舞う責任があるという意識を、社会に広めるべきだと思うのである。
 
 更に、メディアや企業の責任だ。関連企業とメディアは、ある特定の催しについて、アピールしつつ、注目を集めるように仕向ける。そして、企業はそのときに、自社製品を使うように仕向けるし、メディアはできるだけたくさんのひとが集まるように報道する。腹が立つことだが、何か異常なこと、特にこうした事故が起きれば、メディアにとっては、その報道によって利益があがるのだ。
 従って、メディアと関連企業も、責任を負うべきである。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です