木原妻事件の不可解な面

 ネット上、とくにyoutubeなどでは、木原事件がさまざまなyoutuberがとりあげている。いずれも、妻の関与を疑うもので、今後岸田政権は、このことでも追い詰められるだろう。
 ところで、この事件は、いくつもの不可解な面がある。そして、すべてのことがらが、妻の犯行を裏付けるものともいえない。たとえば、妻が全夫と結婚していたときに浮気相手だったとされる人物が、再捜査の過程で(当時覚醒剤使用の罪で服役していた)、妻が電話をかけてきて、やってしまった、といっていた。そして、家までいった、と証言しているのだが、10年以上経過していたことでもあり、また、何度も刑事がやってきて、尋問していたなかでの証言なので、かれが創作したということが、絶対ありえないともいえない。もっとも、実際に、家にでかけたということは、防犯カメラなどで跡づけられているようだから、信憑性は高いと思うのだが。
 
 この事件の文春記事を読んで、最初に疑問に思ったのは、殺害された夫の父親が、自分の車、ハイエースを息子に貸していたのだが、返してくれないので、返してもらうために、夜息子の家に出向いたという点である。別に事実ではないといいたいのではないが、この時刻が午前の3時くらいだったという点だ。いくら大事な車とはいえ、返してもらうために、夜中の3時に出向くものだろうか。いきなり行くとも思えないから、電話をしたはずであり、その際の内容などは、私が知るかぎりは、でていない。息子(夫)に覚醒剤反応がでたというのだから、電話のときに既になにか異常を感じて、あわてて夜中にもかかわらず、かけつけたのではないだろうか。そういう疑問がどうしてもでてくる。

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『レコード芸術』の廃刊

(昨日書いてアップを忘れていたものです。)0
 実はうかつにも、『レコード芸術』のことを今日まで知らなかった。それだけ、『レコード芸術』には関心がなくなっていたということだ。しかし、院生時代から結婚初期くらいまでは、ひんぱんに買っていたし、それ以後図書館で読むことは、たまにあった。しかし、最近は、『レコード芸術』を手にすることはほとんどなくなり、興味もなくなっていた。クラシック音楽関係の雑誌で廃刊になったものは、すでに複数あるから、『レコード芸術』もそのうち廃刊になるだろうとは思っていた。そもそも、レコードというものは、通常、SPやLPなど、回転させて溝にきざんだ波を針で拾って、音にするという器具のことだとすれば、CDはレコードではない。最近でも、LPレコードは発売されているが、私の知るかぎり、すべて過去の名盤の復刻であって、新録音はまず見当たらない。そういう意味で、レコードそのものが歴史的存在になっているのだから、『レコード芸術』という雑誌が生き残る余地はあまりなかったといえる。もちろん、レコードは現在ではCD、DVD、BDなどに発展してきているのだから、それをレコードと考えて、『レコード芸術』がこれまで生き残ってきたのだろう。しかし、やはり、決定的なのは、CDすらもたない、聴かないひとたちが、若い世代のほとんどになってきたことが、『レコード芸術』の販売量を決定的に減少させたのだろう。

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夭折した演奏家 3 ディヌ・リパッティ

 楽器別に選んでいるわけではないが、チェロのデュ・プレ、バイオリンのヌヴーだったので、ピアノはやはりディヌ・リパッティということになるだろう。前の二人と同様に、今でもその早い死を惜しむだけではなく、CDを愛聴しているひとたちが少なくない。なにしろ亡くなったのが1950年だから、70年も前になるのに、新たな人気を獲得しているようにも思われる。しかし、現在現役で活躍している音楽家のほとんどは生まれていないわけで、実際にリパッティを実演で聴いた人は、ほとんどいないだろう。1917年に生まれ、50年に亡くなったルーマニア人である。しかし、後年はルーマニアには帰らず、母親も病気見舞いとして、ディヌが住むスイスにやってきた母親もスイスに亡命したという。共産化しか体制を嫌ったということだろうか。ルーマニアの演奏家は他にクララ・ハスキルやチェリビダッケがいるが、品格のある演奏をする人が多いようにおもわれる。正直なところ、私個人は、ハスキルのほうをよく聴いたし、ハスキルは好きなピアニストだ。ボックスももっている。
 リパッティは、白血病といわれていたが、実際には、ホジキンリンパ腫という病気でなくなったのだそうだ。広義の癌の一種なのだろうが、現在ではかなり治療法が進んでいて、生存率も高くなっている。だから、現在に近い世代であれば、33歳という若さでなくなることもなかったかも知れない。

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部活の地域移管問題 2 

 前回は、スポーツや文化は多様になっているので、多様な要求に学校の部活という形態は対応できないものになっていて、弊害が多くなってきたことをのべた。その解決としては、地域に多様なクラブを設立して、自分の求める形態の活動をしているクラブを選択して参加するようにすればよい、という主張であった。
 今回は、もうひとつの部活の問題である、教師の無償労働の問題を考える。
 
 部活は学校の内部的な活動として行われるが、正規の学校教育の一環ではないので、その指導にかかわる教師は、どんなに長時間指導しても、その対価が支払われることは、つい最近までなかった。近年では、ごくごくわずかな手当がだされるようになっているようだが、到底、指導にかかる労働に見合うものではない。そして、問題は、無償労働であるにもかかわらず、何か事故があったときには、責任を問われるのである。もちろん、民事的な損害賠償責任を負うのは、国家だから、そうした責任を教師個人が負うことはないが、不注意による行政処分などは十分にありうる。不十分ながらの手当がだされるようになった経緯は、詳細には知らないが、教師の過重労働が社会問題化し、その大きな要因が部活指導になることが、大きく問題になったから、せめて手当を出すということになったのだろう。残念ながら、サービスをうける側からの提起はあまりなかったようである。

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部活の地域移行問題

 教師不足を改善するために必須なこととして書くつもりだったが、「部活動は「本当に地域移行できるのか」問題のカギ 教員の「善意・ただ働き」という前提から脱却を」という記事が出され、部活の地域移行の難しさについて書かれているので、そこに絞って書くことにした。
 
 教師不足の改善に必須なことは、第一に教師に対する行政側の教師侮蔑的政策をやめることを前回書いたが、あとは具体的に、教師にとって、必須とはいえない、過剰な労力を必要とする仕事をやめることである。そして、その第一候補が部活に他ならない。部活指導をやめるのではなく、部活そのものを廃止するということだ。部活指導を地域の指導者に移管するなどという中途半端なことは、さまざまな部活問題を解決することにはならないし、また、教師の過重労働を改善することにもならない。

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夭折した演奏家2 ジネット・ヌヴー

 ヌヴーは、デュ・プレよりもっと若い演奏家で、飛行機事故で30歳でなくなった。今では飛行機事故は滅多にないが、第二次大戦後間もなくの頃は、けっこう事故があり、しかも、当時飛行機に乗って移動する人は、ごく限られた人だったから、有名人の飛行機事故死がけっこうあるのだ。ティボー(バイオリニスト)やカンテルリ(指揮者)などが、音楽家では飛行機事故でなくなった。ヌヴーが事故にあわず、そのまま順調にキャリアを積んでいくことができたら、おそらく、世界最高のバイオリニストになっただろうともいわれている。少なくとも、トップスリーになったことは間違いない。なにしろ、戦後の世界トップ奏者の一人だったオイストラッフを、コンクールで破っているのだ。オイストラッフは、既に26歳で、それまでに数々のコンクールで優勝しており、実際に既に確固たる地位を築いて、バイオリニストと活躍していた。おそらく、最後に大コンクールで優勝して、プロとしての活動に専念していこうと思っていたにちがいない。しかし、まだ15歳だったヌヴーが、オイストラッフを抑えて優勝したのだ。しかも、オイストラッフ自身が、自分が2位であったことに不満をもたず、ヌヴーの演奏に感動したとされている。1935年のことだ。そして、ただちに演奏家としての活動を開始して、あちこちに演奏旅行にでかけている。そして、亡くなるまでに、CD数枚分の録音をしたとされる。

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夭逝した演奏家1 ジャクリーヌ・デュ・プレ

 演奏家のなかには、これから円熟の時期を迎え、偉大な演奏家としてたくさんの録音を残すことができたはずであるが、その前に亡くなってしまい、それにもかかわらず、残された録音によって、いまだに多くの人に聴かれて、称賛されている演奏家が何人かいる。そういうなかで、何人かをとりあげていきたい。こういう話題をとりあげようと思ったのは、山岸明子氏の『心理学で文学を読む』(新曜社)を読んだことがきっかけだ。心理学は、分析の具体的事例として、文学作品をとりあげることは少なくないが、それは個人の事例をもちだすことが、プライバシーなどの問題を起こすことから、消極的な代替策として行われる。ところが、この本は、最初から文学作品を心理学的に分析的に読もうという、非常にユニークな発想で書かれたもので、とりあげられている作品も古今東西多岐にわたっていて、文学の読み方に疎い私にも、たいへん興味深く読める。そして、その「続」のなかに、「ジャクリーヌ・デュ・プレの生涯と才能教育」という章がある。これは、話題になった「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」という映画の原作となった姉の回想録を分析の対象にしている。私は、この映画について、所属の臨床心理学科で協同して書いた著作のなかで、書いたことがあり、このデュ・プレは、まったく「ほんとうのデュ・プレ」ではなく、あくまでも姉の通してみたデュ・プレであると解釈している。

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木原官房副長官に関する文春記事

 木原官房副長官の隠し子疑惑なる記事を、週刊文春が書いていたことは知っていたが、そういうことには関心がないので、放置していたところ、関心をもたざるをえない話題で、文春記事がでた。これを知るきっかけは「一月万冊」だった。清水・安富両氏の対談で詳しくこの記事について語っており、また、佐藤章氏が、この記事の特ダネ性と政治的背景について語っていた。やはり、これは記事を読まなければならないと思って、購入し、早速読んでみた。内容は清水氏が紹介していた通りだったが、木原氏は、今本当に困っていると思う。名誉毀損で刑事告訴すると、文春関係者を脅しているそうだが、実際には無理だろう。
 
 記事の内容をごく簡単に整理すると
・木原氏の妻は、前の夫が不審死しており、一時再捜査の対象になっていた。
・前の夫がいた頃不倫していた男が、彼女が夫を殺してしまったと自分に告白していたと、証言している。

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安倍元首相狙撃事件から1年

 昨日は、安倍元首相が、選挙演説の最中に狙撃されて亡くなってから1年であった。そして、この一年間は、安倍氏が存在しなくなったことが原因と思われる、多くの出来事が生じたように思われる。そして、間もなく、犯人とされる山上容疑者に対する裁判が始まることになるだろう。
 私は、犯人が山上であることに、現在でも疑問をもっているのだが、大手メディアの報道については、心底不思議な感情をもってみていた。山上犯人説を否定する論は、簡単に「陰謀論」などと片づけている人が多いのだが、さまざまな情報をみれば、山上が犯人であるということへの疑問はたくさんあるのであって、そこに疑問をいだかないことのほうが、私には不思議に思われ、山上犯人決めつけ論こそ、陰謀論ではないか、とも思えてくる。大手かどうかわからないが、週刊文春だけが、山上犯人説への疑問記事を何度か掲載したが、その後他のマスコミがおいかけ記事をのせることもなく、なんとなく立ち消えになってしまった。とくに、私にとって不可解なのは、リベラルというひとたちは、山上犯人説をまったく疑っていないらしいことだ。疑問を強く押し出しているのは、確かに、非常に右寄りのひとたちが目立つ。しかし、政治的立場は不明の科学者もいる。リベラルというのは、自由な思考をし、単純にものごとをきめつけないひとたちであると思うのだが、この安倍銃撃事件については、公式にいわれていることを、まったく疑わず、その延長上で考えているひとたちばかりである。このブログを読んでいるひとたちはわかるはずだが、私は、もちろんリベラル派である。だから、不思議なのである。

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犯罪者が犯行前に警察に相談

 最近起きた事件のなかで、犯人が事前に、警察に相談していたという事例が、複数あるようだ。とくに、小学校に軽トラックでつっこみ、数名を負傷させた事件は、自分は最近おかしくなっている、と警察に相談していたと、はっきり報道されている。こうしたことをどう考えるべきなのだろうか。もちろん、これは、犯行予告とか、警察への挑戦というような話ではなく、本人が、どうやら自分がおかしくなっており、犯罪を実行しそうだ、だがそれはまずい、という思いから、警察に相談してとめてもらおうという意識だったと、一応考えておこう。
 これは加害者がわからだが、被害者側からの事前の警察への相談は、多数ある。実際に、警察がなんらかの対策をしなければならないことになっているものもある。危険なストーカー行為などに対するものだ。
 事前に相談しているわけではないが、死刑になるために、誰でもいいから殺したかった、という無差別殺人なども、過去何件か報道されている。アメリカで頻発する銃乱射事件などは、犯人はほぼ確実にその場で射殺されており、実行犯もそのことを十分に知っているはずだから、ある意味、より直接的な死刑になるための無差別殺人とも考えられる余地がある。

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