木原事件への誤解があった

 誤解というのは、私自身が大分誤解していたという意味である。もちろん、自分自身で調査できる立場ではないので、おもにネット情報を吟味して考えてきたわけだが、やっと、本当の構図に近いものがわかってきた。そして、週刊文春がその「本当」のところに向かうのか、という点では、むしろあやしいものを感じる。
 木原事件の様相を強くしてきた、と前に書いたが、それは、木原氏が捜査介入をしたということだ。そして、それは、現在でも事実であると思うが、それは、木原氏が主役なのではなく、脇役として介入していたのだ、ということが見えてきたということだ。何故警察庁の長官が、事件性がない、などとわざわざ述べるのか。警視庁の担当責任者も事件性がないと公表している。つまり、事件性がないことを強調しなければならないのは、木原氏よりも警察機構ではないかと思うのである。

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教師になると奨学金返済免除 いいことだが、それだけでは

 さすがの文科省も、教師が大変だというだけではなく、完全に不足状態になっていることになって、困っているようだ。そして、なんとかしなければと思っている。そのことは、伝わってくる。今日のニュースで、教師になると、日本学生支援機構で借りていた奨学金を返済しなくてもいいようにしようという方向での予算請求をしているようだ。「【独自】奨学金の返済免除新たに 教員不足解消へ 概算要求」(FNNプライムオンライン)
 
 このこと自体は、けっこうなことだといえるだろう。今の若い人は知らない人もいるかもしれないが、日本学生支援機構が、日本育英会といっていた時代には、その奨学金を大学でうけていて、教師になると返済免除になっていたのである。そして、奨学金はすべて無利子でもあった。教師になると返済免除というのは、戦前の師範学校時代をある程度引き継いだといえる。師範学校は、授業料は無償だったので、家は貧しいが学力がある若者が進学することが多かった。欧米のとくに小学校の教師などと較べると、日本の小学校教師は、やはり非常に優秀だった。それは、戦前のそうした教員養成制度の仕組みがひとつの要因になっているといえるのである。そして、教師は、基本的に尊敬されていたし、安定した職業、男女平等の職業として、志望者も多かったのである。

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思い出深い演奏会5 パールマン

 パールマンがやはり東京都交響楽団の演奏会に出場したときのことだ。非常に興味深い事態に遭遇した。実演でパールマンを聴いたのは、このときだけで、先にも後にもない。正直なところ、世界トップのバイオリニストに違いないと思うが、あまりに楽天的で、心に迫ってくるものが感じられないのだ。それは、後で述べることにして、この都響の演奏会のできごとのことだ。
 曲目はシベリウスの協奏曲だった。最初に驚いたのは、普通の、といっても、こういうオーケストラの定期演奏会でソリストになる人という意味だから、かなり優れた演奏家ということになるが、バイオリンの場合には、最初はなんとなく手さぐりの音で引き始め、充分に鳴らない感じがあるのだ。そして、次第に楽器が鳴り始めて、ああこういう音をだす人なのかと思うのが、多くの場合であった。先発完投型の投手の多くが、初回は調子がでないことが多いのと似ているかも知れない。楽器が鳴りきるには時間がかかるということだろうか。ところが、パールマンは、最初の出だしの音から、実によく響く、太く、それでいて艶のある音だった。ポリーニの音も、最初の和音で、まったく他と違う感じがしたものだが、パールマンのバイオリンの音は、ほんとうによく鳴っていた。

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思い出深い演奏会4

 だいぶ前に、題名のように思い出深い演奏会を3回まで書いたが、そのあと続けないでいた。そして、そのいずれも、アバド、クライバー、ポリーニなど、超有名演奏家のものばかりだった。しかし、それ以外にも、けっこう思い出深い演奏会がある。それを、またぼちぼち書いてみようと思った。最近、五十嵐顕著作集の仕事をしていて、ほとんどCDを聴く時間がとれないし、本も読めないので、だんだん話題が狭くなっている。以前はけっこう調べてから書くことが多かったが、いまはそういう時間もとれないので、「思い出」を材料にすることにした。
 
 今回書くのは、ズデニェク・コシュラー指揮の東京都交響楽団の演奏会だ。コシュラーは、優れた指揮者だと思うが、中堅クラスの指揮者として、国際的に活躍していたときに、一種の舌禍事件をおこして、干されたとまではいかないまでも、かなり不遇な状況になってしまったとされる。私の知るかぎりでは、コシュラーが、チェコ・フィルの二人制の常任だったとき、もうひとりの指揮者であるノイマンが辞めたら、**を推薦したいというような発言をしてしまったのである。ノイマンといえば、チェコ音楽会の重鎮であり、別に病気などで、引退しそうな雰囲気だったわけではない。たしかに、高齢ではあったが、指揮者は90歳になっても、健康であれば現役だから、「ノイマンが辞めたら」というような発言は、あまりに刺激的なものだった。ノイマンが怒ったのも当然だろう。それ以来、コシュラーは、来日もあまりしなくなったし、CDが発売されることもほとんどみられなくなった。コシュラーは、ニューヨークで行われたミトロプーロス指揮者コンクールで、アバドと一位を分け合ったほどの実力の持ち主だった。

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木原官房副長官が文春を刑事告訴

 立憲民主党の質問状に対する回答のなかで、文春を刑事告訴していることを明らかにしていると、各種報道がある。刑事告訴をするということは、文春の記事がでた当初からのべているので、別に驚くことではないが、刑事告訴などをしたら藪蛇になるという指摘もたくさんあり、だから、日弁連への救済を申したてたといわれていたので、躊躇はしつつも、やはり実行したのかと、改めて思ったわけだ。しかし、これが木原氏にとって有利に働くことはないと思われる。
 文春の記事で、刑事告訴をするということは、当然、文春の記事が、木原氏の社会的地位を脅かすほどの名誉毀損となっているということだろう。実際のところ、文春の記事が、木原氏の社会的地位に、大きな脅威となっていることは事実だ。だからこそ、木原氏としても、かなり切羽詰まった状況なのだろう。

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大学の中退が多いことについて

「大学進学者の8人に1人が辞めている衝撃の事実。指定校入学者8割、一般入試10割という中退例も…大学側が伏せる不都合な真実とは」(集英社オンライン)
という記事があった。題名のとおり、大学進学者の8人に1人が中退しているという事実が説明されている。あまりその実態が明らかにならないのは、大学が隠しているからだ、というのだが、大学が毎年の中退者を公表する必要があるかどうかは疑問であるので、大学の責任を問うのは、おかしな気がする。ただ、その事実の公表以上に、大学にとっては、学生が辞めていくのは、好ましい事態ではないといえる。ただ、全体として、ほんとうに入学した学生が、全員卒業することが好ましいことであるかどうかは、かなり疑問なところだ。そもそも、大学とは、なんのためにあるのかということを考えれば、基本的には、将来つく職業にかかわる基礎的な教育(専門教育の初歩)を学ぶところだと考えれば、大学に入学する学生の多くが、将来のことを決めているわけではないし、また、決めていたとしても、一端決めたとしても、変える学生も少なくないのだ。志望を変更すれば、そのまま大学に残っていても、あまり生産的とはいえない。日本の大学の多くは、転学部をあまり認めていないから、将来の志望を変更したら、その大学内で所属学部を適切なところにかわる、ということができないのだ。だから、辞めることになる。

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まわりにロシア人が来たら

 ヤフーニュースに、テレ朝ニュースで報じたものの記事が掲載されている。「「ロシア人は帰れ」国を捨てた先で待っていた”拒絶” 若者たちの苦悩【現地ルポ】」というものだ。
 ジョージアの話で、ジョージアには、ウクライナ戦争勃発のあと、多数のロシア人がやってきた。そして現在、ロシア人にたいする反感が最高潮に達しているというのだ。かつてジョージアはロシアと戦争をおこない、散々な目にあっている。ソ連が崩壊して、独立したわけだが、その当時はグルジアと呼ばれていた。私たちの世代では、スターリンの故郷であるということでも有名だった。独立後も混乱が続いたし、ソ連時代の外務大臣として、日本でもよく知られていたシェワルナゼが大統領をしていたが、選挙の不正ということで、混乱が生じて辞任したり、そして、その後、南オセチアをめぐって、ロシアとの間に激しい戦争が起きたりした。

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「鬼平犯科帳」がっかりする話 雨乞い庄右衛門

 「鬼平犯科帳」は、どの話もよくできていると思うが、なかには、部分的に不充分さ、不自然さを感じるものもある。そういう話をいろいろと考えてみよう。別に順位をつけるものではない。
 前にも、同じ観点での紹介をしたので、そのときにあげたものはできるだけさけることにする。まずは「雨乞い庄右衛門」である。
 庄右衛門は盗賊の頭だが、かなり深刻な病気になって、人生を一度は諦めたようだが、温泉につかってみようと考え、故郷に近い山里離れた温泉で3年間療養をした。すると、健康を回復したので、江戸にでて、最後の盗みをして、団を解散しようと考えていた。
 ところが、その間に、若い手下たちが、離反しており、元気になって一人江戸にむかった庄右衛門と、手下の定七と市之助とが街道でばったりあい、迎えにきてくれたと喜んだ庄右衛門は、いっしょに江戸に向かうことになる。しかし、ふたりは庄右衛門を暗殺するためにでてきたので、夜、宿屋で襲う。しかし、偶然同じ宿に泊まっていた岸井左馬之助がそれを知り、助ける。そして、左馬之助が護衛のようなかたちで、いっしょに江戸に向かうが、途中で発作をぶり返し、そのまま庄右衛門は死んでしまう。しかし、その前に、彼を怪しんでいた左馬之助は、長谷川平蔵の友人であることをあかして、庄右衛門に最後の望みをかなえさせてやるともちかけ、仲間の情報をえる。そして、急ぎ平蔵に知らせて、全員逮捕するという結末だ。この結末には、さらに逸話がそえられており、お礼をしたいという平蔵に、なんでもよいという条件を認めさせ、平蔵愛用の名刀和泉守国貞を所望し、平蔵が恨めしげに名刀をわたす場面で終わる。

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札幌事件と木原妻事件の共通性を考える1

 まったく無関係の事件だが、札幌での首をきった殺人事件(以下札幌事件)と木原妻の関係している事件(以下木原妻事件)とが、共通点であるのではないかという可能性がでてきた。札幌事件の場合は、加害者がほぼ確実に特定されているが、木原妻事件は加害者が特定されておらず、正確にいえば、殺人事件であると断定されているわけではない。しかし、捜査にあたった刑事が、実名で事実をのべていることから考えて、自殺ではありえず、殺人事件の可能性は、ほぼ確実になっているといえる。だが、これまでは、木原官房副長官の妻とその友人Yが疑われており、前者の可能性が高いと感じられていた。しかし、週刊文春最新号の元刑事の説明で、もう一人の可能性が主張され、今日の記者会見では、あくまでも当刑事の主観・見立てであることが強調されていたが、実は、木原氏の妻がほんとうにやったことなのか、という点については、疑問ものべられていたし、私自身もそのように書いていた。そのときには、私はYの可能性が高いと思っていたのだが、その後、死亡推定時刻とNシステムによるYの現場到着時刻の関係で、Yの犯行は不可能だったと、ほぼ証明されている。そして、でできたのが、元刑事によるZの登場で、まったく違う展開が考えられるようになってきた。文春では、Zへの取材が報告されており、Zは当日現場にいったこと、そして、けっこうひんぱんに現場(木原氏の妻が同時結婚していた夫の家、長期に家をでていたので当日夫に連れ戻されてきた家)にいっていること、そして、事件当時、捜査にあたっていた警察署にもいっていたことを語っているのである。そして、その他の条件(ボクシングをやっていた)等も考慮して、このZが木原妻の父親であることが、強く信じられるようになっている。(ネット上での話)そして、このZは当時現役の警察官であり、体力的にみて、実行することができたことははっきりしている。もちろん、これは、まったく証拠によって証明されていないことであり、あくまでもこれまでだされている情報から判断していることである。それを確認したうえで、考えていく。

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守秘義務と公益性 木原事件の新展開

 もはや「木原事件」といってもいいような展開になってきた。最初はわずかだった週刊文春の記事によるyoutube番組も、がぜん多くなってきた。そして、わずかながら、大手メディアも少しずつ書かざるをえない状況がうまれている。ついに、当時中心的に木原氏の妻に事情聴取をしていた担当刑事が、すでに退職したということもあり、多くの事実を実名で、文春記者に語って、それが記事になったのだ。その内容は、ここでは詳しく紹介することはやめるが、(ぜひ文春を読んでほしい)ここで、新しいまったく別の問題が生じたといえるので、そちらにしぼって考えてみたい。
 担当刑事だったひとにとっては、当然、捜査内容を自身の判断で公表することは、守秘義務違犯になる。そのことは、当然本人は承知で、語っている。そういう決意をさせたのは、警察庁の幹部が、先日記者会見で、捜査のうえ、事件性がないことが確認されたと述べたことだった。当然現場の刑事たちは、事件性があり、殺人事件であることを確信して捜査をしていた。それが突然中止になったことだけでも悔しい思いをしているのに、警察の最高幹部が、事件性がないと、記者会見で断言した。つまり、嘘をついたわけである。このことにたいしての怒りが、文春記者に語る決意をさせたわけだ。

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