「引き込み女」は文庫の19巻なので、かなり晩年の作品になる。さすがに晩年の話は、矛盾したり、おかしな設定になっていることがけっこう目立つ。「引き込み女」は、前の話とのつながりが間違っていることから、話の展開も不自然なのである。だいたいの筋はこうだ。盗賊磯部の万吉をみかけたというので、その方面の探索をしている途中で、おまさが、むかしの仲間お元が、じっと川面をみつけているのをみかける。そして、跡をつけ、とある商家の引き込みにはいっていることをつきとめる。そこで、長谷川平蔵は、見張り所を設定して、その商家を見張っているのだが、なかなかお元は外出しない。足を洗ったのではないかなどといっているうちに、外出したので、彦十とおまさが跡をつける。外出の目的は、女主人の化粧品を買うことだったようだが、そのあと茶屋にはいってなかなかでてこないので、おまさがおもいきって茶屋の中にはいり、偶然であったかたちで話をする。相談したいことがあるというお元のために翌日も会うことになり、そこで、養子の主人(さんざん姑と妻にいびられている)が、お元を気に入り、駆け落ちしようとつよく迫っていることで、悩んでいたのである。結局、盗みの決行の日に、お元は逃亡してしまうが、一年後、江戸で死体となって発見されたという結末だ。
どこががっかりなのか。それは最初の出会いからである。おまさとお元は、かつて共通の盗賊の頭の下で働いていた、そして、その頭は乙畑の源八であったのだが、乙畑の源八が病気で死んだので、一味はばらばらになってしまった。おまさとお元は別々の道を歩むことになり、会うのはそれ以来だというのである。実は、乙畑の源八という、かつてのおまさの頭だった盗賊は、実際には登場したことがない。つねに名前だけである。というのは、乙畑の源八の手下であったときに、おまさは、源八が手荒い盗みをするようになったことに嫌気がさし、子どものころによく知っていた(おまさの父親が「盗人酒場」という飲み屋を経営していて、そこに勘当同然の平蔵がころがりこんでいた。小さいおまさが世話をやっていた時期があった。)平蔵が、火付け盗賊改めになったことを知って、みずから密偵になりたいといって、平蔵のもとに出頭したのである。そして、そのときに、乙畑の源八のことを平蔵に告げ、一味もろとも逮捕されてしまう。その処罰がどうなったかは、あまり書いていないのだが、おまさのことがわかってしまってはこまるのだから、当然厳罰に処せられたに違いない。そして、おまさはそれ以来、平蔵の密偵になる。「鬼平犯科帳」の初期のことである。そのときお元のことなどは、池波も当然考えていないわけだが、当然、捕まらなかったということだろうが、それでも、頭が一味もろとも捕まったのだから、そのことを知らないはずがないし、処罰されたなかにおまさがはいっていないのだから、怪しむはずである。
ところが、「鬼平犯科帳」全体として、乙畑の源八が、おまさの密告で一味もろとも捕まったということには、その後なっていないのである。単に死んだとか、病死したというかたちででてくる。また、昔の盗賊仲間と出会ったときに、「乙畑の頭は元気か」とおまさは聞かれて、「はい」などと答えているのである。この答えが、おまさのはぐらかしなのか、あるいは池波が、乙畑の源八をおまさが密告で逮捕させたことを、池波自身が忘れてしまったのか、よくわからない。だが、この「引き込み女」では、源八血頭が、病死したために一味がばらばらになり、お元とおまさは、旧知の友として再開することになっている。しかし、おまさは、お元にとっては、頭をうった裏切り者である。「鬼平犯科帳」を最初から読んでいる読者にとっては、ありえない設定から始まることになってしまうのである。
さて、お元の悩みをきいたおまさは、どうしたらよいか、と問われて、どうすればいいかわからない、と答えている。しかし、おまさとお元は、非常に仲がよかったとされ、だから、おまさはお元をなんとか助けたいと思っているし、また、一味を捕縛しても、お元はなんとか見逃してほしいと願いでている。そして、それを平蔵は許していた。火付け盗賊改めとしての捜索は進み、盗みにはいる日取りまでわかる。そういう段階で、なぜおまさは、どうしたらいいか、などというレベルで明確な判断ができず、結局、お元が逃亡するのを見逃したのだろうか。この段階では、平蔵や密偵たちの技術は円熟しており、お元の一味は、当日確実に一網打尽にされるのだから、おまさは、お元に自分が密偵であることを打ち明け、一味は全員確実に捕縛されることを伝えて、ともに行動することを強く求めるか、あるいは、お元が逃亡したときに、そのまま捕縛して、一時的に捕らえておき、軽い罪にするとか、あるいは説得して密偵にするという、いくつかの選択肢がありえた。そのいずれもしないまま、逃亡するのにまかせたのは、なんとも無策としかいいようがないわけである。平蔵も、おまさの意思にまかせてしまう。読者として、別に気にすることではないのだが、物語としての、それまでの円熟したやり方からすると、いかにも平凡な処理をしていることに、逆に違和感を感じるのである。結局、お元は、江戸に帰って来たところで、一人だけ捕縛を免れた磯部の万吉にみつかって殺害されてしまうのである。この終わり方も、いかにも、味気ないし、必然性もわからない。