水泳界で、再びトラブルか

 2大会連続のオリンピック代表選手だった五十嵐千尋という選手が、ツイッターで、水泳連盟を批判したということで、話題になっている。「「日本は世界から出遅れている」五十嵐千尋が日本水泳連盟を糾弾!声を上げられない現実に訴え「もっと選手の意見に耳を傾けるべき」」という記事だ。
 これで、すぐに思い出すのは、千葉すず選手の訴えだ。自由形の選手だった千葉すず氏が、表にでている規準によれば、当然代表選手に選ばれるはずであるのに、選ばれなかったことを不服として、仲裁委員会に提訴したのだったと記憶している。これには賛否両論あり、千葉を非難する人も少なくなかったし、正しいことをいっていると応援する人もまた多かった。私自身は、応援派だった。スポーツの世界で、幹部やコーチを批判することは、かなり難しいのだろう。私自身は、スポーツ、とくに野球が好きで、若いころはずっとやっていたが、あくまで草野球の世界で、部活にはいったことはないので、詳しいことはわからないが、ただ、部活などのとんでもない非常識な階層社会的なことが嫌で、部活にははいらなかったわけだ。たとえば、当時中学の野球部では、1年生はボールを握ることもできず、ただ先輩たちの練習を遠くからみていて、声をだすだけということだった。本格的に野球ができるようになるのは、2年生になったからだというのだ。そんな世界に入りたくなかったので、そのまま草野球を続けた。
 それは、部活のスポーツは、他の種目でも似たようなものだった。それだけ不合理なことが横行している世界だから、上を批判するなどということは、とんでもないことだったに違いない。そういう意味では、千葉すず氏の訴えは、非常に勇気があるものだったし、そして、事実その後の水泳連盟の運営が変わり、それによって、不振だった日本の水泳界に活気が戻り、世界大会でメダルがとれるようになったのである。

 そして、重要なことは、勇気ある発言だったというだけではなく、主張が明解で、誰にも納得のいくことだったという点がある。オリンピック代表に選ばれるためには、**の規準を満たす、という規準があり、それを満たしたのに、選ばれない人がでる。それは千葉だけではなかったようだ。つまり、水泳連盟のえらいひとたちの「主観」によって、規準を超えて、選ばれる選手が変更されてしまうのである。それはおかしいではないか、ということだ。きわめてまっとうな主張である。アメリカは、ある指定の大会での成績で選ぶ、ということが明確になっていて、普段どんなに強い選手であっても、たまたまその大会で負けてしまうと、代表になれない。とても、明解なわけだ。日本の場合には、基本的には、同じようなことだが、選ぶための大会が複数設定されていることが少なくない。そうすると、A大会で優勝したが、B大会の2位よりも記録が悪い、などということが起きる。2人選抜とすると、A大会の1位とB大会の記録のよい2位とどちらを選ぶか。そこは最終的に選抜する人の主観的要素が働くことになる。マラソンなどは、そうしたことが毎回起きているような気がする。大会が違えば道路事情が異なるし、天気の状態も影響する。したがって、選抜に主観的要素がはいるのは、仕方ない面もあるが、しかし、水泳の場合には、屋内でプールの条件はだいたい似たようなものだから、より合理的、客観的な規準を設定できる。しかし、それが不当に主観的な要素が持ち込まれて、口うるさいとおもわれた千葉すず氏が外されたともおもわれたのである。
 千葉氏の主張は共感をよび、実際に、水泳連盟の運営が合理的なものになったわけだが、さて、今回の訴えはどうなのだろうか。
 いくら記事を読んでも、何が問題なのか、あまりよくわからないのである。いろいろな記事があったが、そのなかで、具体的にでてきたのは、ある選手が、ある大会に出ようとしたら、連盟が認めなかったという。つまり、メインの大会にむけて、サブの大会を経て、調子を整えていくわけだが、そういう一環として想定した大会に、出られなかったということで、その選手は不満だったというわけだ。もっと自主性を認めてほしいという。ただ、それ以外のことは、五十嵐氏も具体的に語っておらず、もっと選手を尊重してほしいというようないい方になっている。そして、直接上申書なり手紙を届けるのではなく、ツイッターで意見をあげた、というところにも、部外者としては、少々違和感を感じる。選手の自主性を重んじるのは、当然だろうが、それでも、大会にでるとなると、費用の問題も生じるし、コーチは違う意見をもっているかもしれない。アスリート本意といっても、プロなら、かかる費用等を自前で負担することで、自由なトレーニングになるだろうが、アマチュアとなると、そういうわけにもいかない部分があるだろう。
 どうも、今回の訴えは、少なくとも、これまで報道されているかぎりでは、千葉すず氏の場合のような、明解な主張として迫ってこない。もちろん、だから、否定するということではなく、より具体的な提起が必要なのではないかとおもうのである。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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