思い出深い演奏会4

 だいぶ前に、題名のように思い出深い演奏会を3回まで書いたが、そのあと続けないでいた。そして、そのいずれも、アバド、クライバー、ポリーニなど、超有名演奏家のものばかりだった。しかし、それ以外にも、けっこう思い出深い演奏会がある。それを、またぼちぼち書いてみようと思った。最近、五十嵐顕著作集の仕事をしていて、ほとんどCDを聴く時間がとれないし、本も読めないので、だんだん話題が狭くなっている。以前はけっこう調べてから書くことが多かったが、いまはそういう時間もとれないので、「思い出」を材料にすることにした。
 
 今回書くのは、ズデニェク・コシュラー指揮の東京都交響楽団の演奏会だ。コシュラーは、優れた指揮者だと思うが、中堅クラスの指揮者として、国際的に活躍していたときに、一種の舌禍事件をおこして、干されたとまではいかないまでも、かなり不遇な状況になってしまったとされる。私の知るかぎりでは、コシュラーが、チェコ・フィルの二人制の常任だったとき、もうひとりの指揮者であるノイマンが辞めたら、**を推薦したいというような発言をしてしまったのである。ノイマンといえば、チェコ音楽会の重鎮であり、別に病気などで、引退しそうな雰囲気だったわけではない。たしかに、高齢ではあったが、指揮者は90歳になっても、健康であれば現役だから、「ノイマンが辞めたら」というような発言は、あまりに刺激的なものだった。ノイマンが怒ったのも当然だろう。それ以来、コシュラーは、来日もあまりしなくなったし、CDが発売されることもほとんどみられなくなった。コシュラーは、ニューヨークで行われたミトロプーロス指揮者コンクールで、アバドと一位を分け合ったほどの実力の持ち主だった。

 コシュラーのことなど、当然知らないときに、私が定期会員になっていた東京都交響楽団で指揮をするためにやってきた。私は、大学院生のとき、ずっと東京都交響楽団の会員で、学生だったために、非常に安かったので、名曲コンサートなども含めて、頻繁にいっていた。おそらく、コシュラーをはじめて聴いたときのことだったと思うが、そのときには、ひとつ印象的なことがあった。予定されていた独奏のバイオリニストが急遽出演不可能になったのである。記憶に間違いなければ、来日してリハーサルも終えた段階で、階段から落ちて大怪我をしたために、演奏できなくなったということだった。それで急遽海野義雄が呼ばれて、ベートーヴェンのコンチェルトを弾いたのである。事実上リハーサルはなかったときいている。とにかく、急な変更だということは、わかるし、何か特別な事態が起きたような説明はあったと思う。それで、演奏は、最初は、やはり、なんとなくさえない。なにしろ、まったくはじめて合わせるのだし、難曲のベートーヴェンだ。両方ともなんどもやっている曲だろうが、リハーサルをしていないのだから、手さぐりになる。しかし、そのうち、なんとなく、相互理解が成立したのか、まあまあ安定した演奏になっていった。しかし、さすがに、とてもよかった、感動した、というものにはなりえなかった。
 
 そして、後半になった。残念ながら、曲が何であったかは覚えていないのだ。ただ、リヒャルト・シュトラウスの曲だったことは覚えている。とにかく、長い曲だったから、「英雄の生涯」か「ツァラトウストラ」だったと思う。私の記憶に間違いがなければ、都響とコシュラーは初顔合わせだったから、まだ充分に理解しあっていないことが、感じられた。リヒャルト・シュトラウスにしては、音がくすんでいて、さえないのだ。ところが、10数分たつと、少しずつ音が変わり始め、弦楽器が艶やかな響きになっていったのである。そして、後半はすっかり輝かしい音色に満ちた演奏になっていた。「思い出」というのは、この演奏の途中から、音色に明確な変化が生じたことだった。あのようなことは、他にあまり経験したことがない。コシュラーは、優れた指揮者だと感じたものだ。
 
 さて、そのころ都響の常任指揮者は、渡辺暁生だった。私は好きだったが、オーケストラメンバーのなかでは、あまり評価が高くなかったようだ。日フィルの指揮者だったこともあり、元日フィルのメンバーだった人を知っているのだが、渡辺氏をひどくこき下ろしていたことがあって、驚いたものだ。都響で、石川静がブラームスのコンチェルトを弾いたとき、指揮の渡辺と石川が完全に違う解釈を互いに固執していて、バイオリンがひいているときと、オーケストラだけのときのテンポがまったく違うのだ。石川は、音楽雑誌のインタビューで、名前はあげなかったが、あきらかに渡辺の指揮を批判していた。ただ、私は渡辺のテンポのほうがしっくりくると感じていた。
 そんなある日、上野公園を歩いていると、渡辺暁生が一人で歩いてきた。サインでももらおうかと思ったが、ひどく疲れた感じで歩いていたので、近づきがたくなり、そのまま通りすぎたのだが、それから間もなく、都響の常任指揮者が交代するという発表があった。オーケストラのメンバーが、外国人の指揮者の下でやりたいと申し出たのだそうだ。ようするに、渡辺への拒絶といってよい。その発表をみて、上野公園での疲れた様子を思い出した。
 その後何度かコシュラーの演奏を聴いたと思うのだが、あまり覚えていない。結婚して、転居したため、都響会員もやめた関係で、聴いたとしても、かなり少なかったと思う。覚えていないということは、印象的な演奏会ではなかったということだろう。だが,最初のこの演奏会は、ある部分を鮮明に覚えている。
 
 そして、その後チェコフィルの常任指揮者になったことを、雑誌で知っていたが、舌禍事件のあと、少なくとも日本の音楽界では、影の薄い存在になってしまったと思う。コンクールで一位をわけあったアバドが、その後クラシック音楽界の頂点となるポストで活躍したことを考えると、「舌禍」のマイナス効果を思わずにいられない。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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