日本は本当に能力主義社会か4 経済審議会答申の検討1

 能力主義を日本の社会と学校教育にもたらしたのは、1963年に、経済審議会が答申した「経済発展における人的能力開発の課題と対策」である。それ以外にも、いくつもの答申が重ねられ、中教審でも、呼応する答申があるが、まずは、中心的な位置を占めていると認識されていたこの答申を、じっくり読み返してみることにした。
 当時、日教組やそこに結集する学者たちにとって、この答申は、完全に批判の対象であり、乗りこえるものだった。しかし、その批判は、特に教育学の面では、一面的だったように、今では感じられる。この答申が、着実に実行されたから、日本社会が格差社会となり、さまざまな社会問題や教育問題を喚起したのではなく、むしろ、歪んだ実行や実行されない部分があったために、問題が噴出したという見方も成立するように思うのである。(*1)そこは、今後検討するとして、今回は、この答申には、どのようなことが提言されていたのかを確認しておくことにする。

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パラリンピック学校連携観戦への疑問

 パラリンピックが始まり、オリンピックではほとんど中止された学校連携観戦が、かなり減ったとはいえ実施されている。オリンピック開始時とは比べ物にならないほど、コロナの感染が拡大しているにもかかわらず、学校連携観戦が強行されているようにみえる。そして、強行であることからくる、いかにもおかしな対策が取られている。そして、ましなことだと思われることでも、批判されたための後追い策になっている。
 例えば、当初公共交通機関を使用して、ひとつ前の駅で降りてから徒歩で会場にくるようにという指示だった。それは、最寄りの駅は、観客が多く利用するので、子どもたちは歩けということだった。この炎天下に、本当に歩かせていたら、かなりの熱中症患者がでただろう。それが、貸し切りバスを使用することが認められた。無観客になったからだ。しかし、駐車場等が使用可能かどうかはわからない。主な会場の周辺は、厳しい道路制限が実施されているから、会場によるようだ。

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日本は本当に能力主義社会なのか2 日本経済の停滞と二世政治家

 能力主義原則は、近代社会の原則のひとつであり、古代や封建時代への復古主義者でもない限り、だれでも原則的には積極的に認めるものである。しかし、他方、その弊害もずっと指摘されていた。そうした検討は、次回以降に譲るとして、今回は、能力主義が、日本では徹底しているどころか、軽視されていることを示す。
 
 まず次のグラフをみてほしい。

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日本は能力主義社会なのか1 疑問

 これまで、教育学は、日本の教育が競争主義的で、それが様々な格差を生み、いじめなどの問題を噴出させている、そして、その背景となっているのが、能力主義であるという批判を行ってきた。4回にわたって行った日教組教育制度検討委員会報告の検討も、報告が日本社会・教育の能力主義を克服することを、基本的な原理としていたことを示した。
 しかし、私は、ずっと長いこと、本当に日本の能力主義社会なのかという疑問をもってきた。むしろ、日本は、能力を正当に評価しない社会なのではないかと思わざるをえない面が多々あるように思われる。私自身の就職活動の経験でも、能力が正当に評価されたと感じたことは、極めて少ない。大学の教師としての公募に応募する機会は、いまの学生の就活と比較すると非常に少なかったのであるが、結局、コネなどで排除され、極端な例では、「業績がありすぎる」ということで否定されたことすらある。結局、採用してくれた大学は、正当に能力を評価してくれたのだと思うが、(多くの人が提出した指導教授の推薦状を、私は求められていなかったのでださなかったくらいだし、実際に面識のある人は、まったくいなかった)それは、例外的だと感じたものだ。
 就職活動をしている人たちで、自分が正しく評価されたと感じた経験は、どのくらいあるのだろう。
 ここで、分かりやすい例をあげてみよう。次にあげるのは、戦後の日本の総理大臣の出生である。

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日教組教育制度検討委員会報告(一次)の検討2 高校三原則は現実的だったのか

 前回、日教組制度検討委員会の報告での、高校三原則を実現せよという要求が、実際には、男女共学以外は(それも私学では不十分だった)、ほとんど実現せず、逆の方向に進んだことを指摘した。単なる教育運動側の力量不足なのか、あるいは、要求内容の不備だったのか。おそらく両方だったのだろうが、ここでは、要求内容を検討する。
 
要求の形式的把握
 「教育要求」を、制度検討委員会は、まずは形式的に捉えたといえる。「進学したい」という要求を、当然・自然・健全なものとしたが、そういう把握に、批判的なひとも当然いる。後藤道夫編『競争の教育から共同の教育へ』で、「国民の要求」への批判がそもそも射程に入っていないと批判している。これは、堀尾に対する批判であるが、この報告への批判としてもあてはまる。後藤は、国民の教育要求が、進学要求である限りは、その後かなりの程度実現していくが、それは、国民が、支配階級に取り込まれていく、後藤の表現によれば、「馴化」されていく過程であり、その事実をみれば、我々=要求実現、政府=要求の制限・抑圧という図式は成立しないというわけだ。それは、「国民」をどう捉えるかという点にもあると後藤はいう。制度検討委員会の報告では、「国民」を定義しているわけではない。しかし、後藤は、「子ども、親、教師」を想定していると書いている。(後藤の批判は、対堀尾理論だが、制度検討委員会報告の骨格は、堀尾論であるので、ここでは、基本的認識は、堀尾=制度検討委員会としておく。)ただ、中心は教師であるという点での批判意識は、ずっと以前からあった。親は教師に「委託」するわけで、国民の教育権論は、基本的には、子どもや親の教育要求を、教師が実現するという構造で、そのためには、教師の教育の自由と研究の自由が必要他というものだった。(後藤の批判を、私が認めているわけではない。後藤的発想に対する批判は、また別の機会に書く。)

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日教組教育制度検討委員会報告(一次)1 教育要求実現が教育的格差を生むとは

 戦後に行われた教育改革は、大きく5つの時期に区分することができる。
 第一は、当然アメリカ占領下において行われた「戦後改革」である。
 第二は、1950年代、米ソ対立、朝鮮戦争を契機とした講和条約に発する「逆コース」という一連の戦後改革の否定と管理強化。
 第三は、高度成長とそれに乗って延びた進学率の上昇への対応が中心となった中教審46答申による改革である。
 第四は、日本の経済力がほぼ頂点となった80年代に、中曽根首相の主導による臨教審の改革。そして、それを引き継ぐ小泉改革。
 そして、第五が安倍内閣による教育基本法改定等に代表される一連の教育改革である。
 これらの多くが「改革」というには多少スケールが小さいが、教育の局面を変化させたことは間違いない。
 第二の逆コースに対しては、日教組などが力で対抗することが多かったが、第三の中教審答申に対しては、大学紛争などの青年運動に刺激されてか、日教組は、全面的な制度改革案を自ら提起するなど、積極的に対案提示を行った。

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和光の教育を考える2 丸木政臣氏は何故インクルーシブ教育を始めたのか

 「丸木政臣教育著作選集第4巻学校論」(澤田出版)が届いたので、読んだ。そして、障害児教育の開始と経過について、詳細というわけではないが、ほぼ理解できる程度に書かれている。非常に興味深い内容だった。しかし、小山田圭吾氏のいじめ関連については、元著作が1992年ということもあり、まったく触れられていない。当時からいじめはあったとも思われるのだが。
 丸木が、熊本の教師から、和光学園の教師になったのは、1955年である。1941年に熊本師範学校にはいり、43年に繰り上げ卒業、予備士官学校入学、そして、鹿児島で沖縄派遣軍にはいり、一端沖縄にいくが、東京に戻された間に敗戦となった。教師になったのは1946年であるから、戦後の教育運動を担った多くの教師が、「再び教え子を戦場に送るな」という思いをもったのとは異なる。教師としての戦争体験はなく、自らの戦争体験と、友人が無為の戦死をしたことなどによる「平和教育」が、彼の教育意識の土台となっていた。それは、和光学園の教師になっても継続的に、沖縄訪問等々の平和教育として実践された。

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和光学園の教育を考える1

 和光学園は、民主主義的な教育を旗印にした学校として、かつては有名だった。
 長く和光学園の校長や副理事長、学園長をしていた丸木政臣氏の著作をアマゾンに注文し、今日届いたので、ざっと見たが、私の求める答えはまったくない書物だった。1996年に書かれた『わが教育の原点』という書物だが、沖縄のことだけが書かれていて、和光学園での平和教育以外のことは、ほとんど触れられていなかった。別途、学校改革に関する書物を、県立図書館に予約したが、入手は来週になるので、再度、丸木氏の教育論については、その本を読んでから考察したい。
 実は、私は若いころに、丸木氏と共同の仕事をしたことになっている。三省堂がかなりのエネルギーを注いだ『資料日本現代教育史』全4巻で、編集委員として、宮原誠一・丸木政臣・伊ケ崎暁生・藤岡貞彦が名を連ね、実務を私と先輩の井上さんと二人の院生で行った。私が研究的な仕事で収入を得たはじめての経験だった。たまに行われる編集会議では、宮原氏と丸木氏はあったことがなく、最後の完成祝いのパーティで宮原氏はいたが、丸木氏がいたかどうかは、私はまったく記憶がない。そもそも、当時あまり丸木氏のことをよく知らなかった。この仕事は、私にとって本当に貴重な体験だった。資料の選択はほぼ編集委員が行ったが、実際にその資料を探し出してコピーをとり、どの部分を資料集にいれるかを、実際に全部読んで判断し、案を作成するのが私の仕事で、これを通して、戦後の重要な教育に関する資料をほぼ読んだことになる。この資料集には、和光学園の資料はまったく採用されていない。
 
 さて、和光学園は、当初から芸術重視の教育を行い、個性を尊重していたが、しかし、いつか教育の雰囲気が変化していったようだ。もっとも、学園からすれば、意図的に変化させたわけではなく、個性尊重という教育方針の延長上に現在があるという認識かも知れない。

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教育学を考える26 競争と教育2

 では、どうしたら競争を媒介としない教育が可能になるのだろうか。もちろん、その最大のヒントはサドベリバレイ校の教育にある。しかし、サドベリバレイ校の教育を通常の公立学校に適用することは、もちろん不可能である。もちろん、その精神をとりいれた実践は可能かも知れないが、その幅は小さいに違いない。
 したがって、競争をやめるためには、制度改革が必要となる。では、どのような改革が必要なのか。ここでは、まずは実現性はひとまず無視して、考えられることを書いておこう。

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小山田圭吾はオリンピック開会式担当をおりるべき 和光の教育にも疑問が

 私は、このブログの読者は十分承知しているように、クラシック音楽以外はまったく聴かないので、小山田圭吾という人は、まったく知らなかったし、開会式の音楽で騒ぎになっていることは、一月万冊で初めて知った。念のため、ネットで調べていると、これはあまりに酷いということ、しかも、彼がいじめをやっていたのが、和光学園であるということで、書かざるをえないと思った。和光学園というのは、リベラルな教育で知られており、そういう方面では評価が高い。大学だが、私の尊敬する先輩が務めていたこともある。その和光学園の小学校から高校まで、筆舌に尽くせないようないじめを継続していたこと、そして、更に問題なのは、それを雑誌で2回も、自慢げに語っていたということだろう。ネットでは、有名な事実だそうで、そのことについては、小山田圭吾という人は、いじめ問題での有名人だったそうだ。とくにネット時代になってからは、ずっと非難され続けているという。

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