日本は本当に能力主義社会か8 中教審46答申の検討1

 1966年の答申が出たあと、日本だけではなく、国際的に教育に大きな問題提起をするような事態が生じた。それは1960年代後半、パリのカルチェ・ラタンで起こった青年運動である。それは、瞬く間に先進国に広がり、日本でも大規模な大学紛争が起きる。アメリカでは、学校教育に対する根底的な批判と新しいオルタナティブ教育をめざす学校が創設されていく。そうした青年運動の中心的な問題意識は、既存の学校教育への疑問であった。だから、大学だけではなく、高校や中学にまで影響を及ぼしたのである。
 日本では、高校や大学の進学率があがったが、激しい受験競争が伴っていた。不合格者の自殺者まで出た時代だった。また、高度成長が進んで、国民生活が豊かになった反面、その歪みも目立って来た。特に、都市部における公害は酷く、各地で公害反対運動が激化していた。そして、経済審議会答申が指摘していたように、国際社会・経済における日本の位置に変化が生じ、追いつき型から、創造的な技術開発が求められる状況になってきたと、認識され始めていたのである。

 1966年の中教審答申は、「期待される人間像」への反発が強く、現実的には改革に影響を及ぼすことは、ほとんどなかったと評価せざるをえない。それで、より本格的な学制改革の課題が提起され、教育体系全般にわたる改革案が提示されたのである。昭和46年にだされたので、「46答申」と呼ばれ、資料も含んだ出版は、まるで電話帳のような大きなものだった。
 早速検討するが、基本姿勢を確認して、あとは、以前の答申にはなかった部分のみ紹介することにしよう。
 
 「学校教育自体の改善の方向」として、4点をあげている。
ア  人間形成を特定の能力の伸長だけで評価することなく,その多面的・総合的な発達をいっそう重視すること。
イ  学校における教育のさまざまな態様に即応し,たとえば,社会性の発達を助長する集団活動や個人に対する適切な指導のためのカウンセリングなどの方法を充実すること。
ウ  社会の情報化に伴う教育環境の混乱に対応して,学習意欲の正常な発達を促進し,雑多な知識・経験を再整理して基礎的な能力の定着をはかること。
エ  義務教育以後の学校教育を一定の年齢層の者だけに限定せず,国民一般が適時必要に応じて学習できるようにできるだけ開放すること。
 
 一見もっともなことが書かれているが、既に、アとウは矛盾しているように思われる。アでは「多面的・総合的な発達」といっておきながら、ウでは、「雑多な知識・経験を再整理して」と書いている。多面性を強調するならば、「基礎的」でない知識を「雑多」として整理の対象とすることは、おかしなことである。結局、多面性といいつつ、中核となる能力や知識を重視し、そこからはずれる領域は「雑多」として排除するのだろう。 
 また、進路指導のためのカウンセリングの充実、そして、カウンセラーの養成は、今に至るまでまったく実現していない。カウンセラーは、現在ほとんどの学校に配置しているが、それは心理臨床のカウンセラーであって、進路指導のカウンセラーではない。欧米ではカウンセラーは、主に進路指導をする専門職であって、心理臨床の相談員はセラピストなどと呼ぶことが多い。そして、進路指導は行なわれているか、主に進学指導になっており、個々の生徒がどのような資質をもっていて、どのような進路かあるかを、初等段階から相談にのって指導するようなことは、私はほとんど聞いたことがない。
 
 次に「第2章  初等・中等教育の改革に関する基本構想」がくるが、ここでは、まず戦後の占領下における改革に固執することに否定的に言及し、戦後民主主義改革への決別を宣言している。そして、「初等・中等教育の根本問題として、以下3点をあげる。
1 一生の成長の基礎として、国民に不可欠な共通を修得させ、個性を伸ばす。そのため精選された教育内容を発達過程に応じた学校体系で指導
2 水準の維持向上、機会均等の徹底、学校教育の普及充実、長期的計画的な施策の推進(指導助言に留めるべきだというのは誤り)
3 優れた教員の確保
 
 2に関しては、それらが政府の責任であることを明確にし、更に、行政の役割を指導助言に留めるべきという主張は誤りと、わざわざ断っている。つまり、「教育基本法10条」を否定していることになる。このあと、安倍内閣によって教育基本法が改定されるまで40年近くを要するのだが、その間、教育に関する基本的な法律である、教育基本法を、既に中教審答申で否定していることが、改めて確認できる。そして、1をみれば、多様な個性を承認する姿勢は、非常に薄いことがわかる。
 このあと、学制改革に関する提案があげられているが、多くは、経済審議会答申や1966年の答申で触れられているので、それ以外の内容について触れる。
 まず「学校体系」に関して、「4,5歳児から小学校低学年を同じ教育機関で一貫した教育」という、その後の「小1問題」を意識したかのような提案がなされている。現在では、ヨーロッパのいくつかの国で、幼稚園と小学校の統合が実施されているが、それは、幼稚園教育から小学校教育へのスムーズな移行をするためである。しかし、日本では現在なおこの点での進展はない。
 また、小・中・高の区切りを多様にすることが提案されているが、それは「仮説」に基づく提案なので、「先導的試行」が必要としており、この部分から、「先導的試行」という言葉がよく使われるようになった。
 教育課程については、「普通高校での選択科目の拡大」を提言している程度で、他には新しいものはない。なお多様なコースを設けることに対して、「袋小路にならないように。競争することだけに追われるのではなく、自分の進むべき道を発見させることこそ、教育の大切な任務である」と書いているが、しかし、この後の日本の教育は、ひたすら競争に依存した教育を、少なくとも行政側は志向していった。一度「ゆとり」教育を進めた時期はあったが、PISAの成績の低下を契機に、再び学力両の増大と、テスト重視に現在覆われている。現在多くの公立中学では、市町村の学力テスト、都道府県のテスト、そして、全国テストを受けることが、教育委員会によって義務とされ、テスト漬けという表現が相応しい状況になっている。
 他の点で、新しい提起は、次の点である。
 
・私立学校の公共性を確保。経済的負担の軽減
・幼稚園入園を希望するすべての5歳児への保障
・公立・私立の地域配置の調整、経済負担の軽減
・個人立の幼稚園をすみやかに法人立に転換
・養護学校における義務教育の実施、市町村に精神薄弱児のための特殊学級の設置義務化
・療養などで通学困難な児童・生徒への教員派遣等、形態の多様化
・重度障害児のための施設を設置。
・早期発見、早期訓練。特殊教育と医療・保護・社会的自立のための施策。心身障害児の処遇
改善
 特殊教育(現在の特別支援教育)については、比較的多くを割いている。養護学校の設置義務などは、実現していった。
 
 行政・管理について、多くを提言している。
8 学校内の管理組織と教育行政体制の整備
・校務分担に必要な職制を定めて校内管理組織を確立
・公立と私立に対する教育行政の一元化
・国の教育施策について国民の意見を聴く。
 既に地方教育行政機関としての教育委員会を任命制に変え、文部省の事実上の監督が可能になっていたが、更に、学校の運営に命令系統が行き渡るようにすることが意図されている。
 この時期の前になるが、教育行政理論、学校管理論の領域で、単層構造論と重層構造論の論争があった。学校は、校長を除いて、教師はみな平等な立場で実践をすることをベストとする組織論(単層構造論)と、企業のようなピラミッド型の組織構成をとり、ラインの命令系統をとったほうがよいとする組織論(重層構造論)であるが、この46答申は、明確にラインの方向性を押し進めるとしたのである。これは、学校に無駄な教職員を配置し、また、実践を息苦しくさせる大きな誤りであることは、その後の事実によって証明されていると思う。
 この職制の発想は、教師の校務分掌だけではなく、高度の専門性をもつ教員に、特別な地位と給与を与える制度を創設し、そのための大学院をつくることまで提案している。前者は、明確には実現されていないが、後者は、いくつかの教職大学院が作られていった。
 教員の確保のために、奨学制度の充実が提起されているが、その後実際に起きたことは、奨学制度の貧弱化であった。有利子の奨学金創設と、教職に就くことによる免除制度の廃止などが、これから先だが、実施されていくのである。(次回は高等教育の部分について扱う。)
 
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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