Newポスト・セブンの記事で「デルタ株蔓延で進む校内の分断 親が登校派と休校派に分かれて互いを罵倒も」が非常に興味深い。単純にいうと、新学期が始まって、保護者の間に、登校派と休校派がでてきて、激しく罵りあうだけではなく、教員も巻き込んでの混乱が生じているというものだ。
おそらく当事者たちは真剣なのだろう。最初の対立は、オリンピック・パラリンピックの学校連携観戦の実施をめぐってだったようだ。これは確かに、親のアンケートなどをとっていたので、行政が親を巻き込むことにもなった。そして、結論が正式にでるまでに二転三転したし、また、特にパラリンピックは自治体間の相違もあった。
こういう問題をどう考えたらいいのか。既に新学期は始まっているから、時期遅れだが、今後同じことも起きるだろう。
地域や学校によって、事情が異なるので、厳密にはいえないが、一般論として、考える必要がある点を整理してみよう。
学校連携観戦と新学期の授業について、共通する面と、異なる面がある。
共通する面は、保護者のなかに、実行派と中止派がいて、同時両立は困難であるというシステムになっていること。学校そして教師は、仕事として統一的に実行しなければならないこと。このふたつである。
相違する面は、学校連携観戦は取りやめても、法令上問題ないが、授業については、まったく取りやめて済ませるわけにはいかないということだ。
実行派と中止派の両立は、現状では、ほとんど不可能だから、両方を満足させる異例の措置をとるか、どちらかには諦めてもらうか。もちろん、可能な限り前者が選択されるべきだから、学校連携観戦では、観戦した者だけが参加する形態がありうるし、また、実行したところでもそうしたようだ。つまり、観戦させたくない保護者は、子どもを参加させなくてよいということだ。しかし、この場合でも、教師たちが、非常に大きな負担を強いられることについて、不満と不安があったことは見逃せない。本来の学校行事ではないことについて、教師に引率を強要することは、私は極めて大きな問題だったと思う。私が、オリンピック反対派だということもあるが、学校という単位で、教師が引率して観戦するというプログラム自体に、無理があるのだ。コロナがなくても、熱中症の危険があったし、また、学校観戦となると、まるで興味のないスポーツをあてがわれる場合も生じる。この点については、今後、日本で夏期オリンピックが開催されることはないだろうから、ここまでにする。
授業再開か、延期かも、全体として行なうには、両立不可能である。そして、この場合、希望をとって、授業を受ける子どもと、受けない子どもに分けるということもできない。授業を行なうとしたら、全員が対象になる必要があり、その仕事を教師が行なうことは、本来の職務だから、当然といえるだろう。しかし、コロナ禍をきっかけに進んだデジタル化によって、ハイブリッド方式(対面参加とオンライン参加の両方の学生がいる授業)なる授業形態が可能になっている。もちろん、ハイブリッド方式が、普通に行なわれるのは大学だろうが、大学で可能なことが、小中学校では不可能だということはない。
授業再開派と休校派の両方を同時に満足させるのは、ハイブリッド方式による授業再開がもっとも有力になるだろう。既に、オンラインの経験はかなり積まれているはずなので、小学校でも可能なのではないだろうか。もちろん、オンライン授業などでは不満だし、十分満たされないという人は、対面授業に参加すればいいのだ。オンラインで可能になっているのにも、それも拒否して、休校にせよという要求は通らないように、私には思われる。
回線の問題などはあるが、問題がある人を対象にして対応をとればいいし、オンラインで受ける子どもが少ない場合には、リアルタイムでなくてともよい。録画をとって、あとで見るという方法も、まったく休んでしまうよりはよい。
コロナは、多くのマイナス面をもたらしたが、それを打開するために工夫されたことは、コロナ後にも応用すればよいのだ。教育においても、従来のやり方が最善などということはない。かつては、不登校になったり、あるいは病気で何日も休むと、その間の教育は保障されないことになっていた。しかし、オンラインや授業の録音によって、不登校や欠席の場合でも、授業を受けることが可能になる。授業を録画して、あとで自由にみられることにすれば、授業では十分理解できなかったことの復讐もやりやすくなる。
コロナ禍のマイナス点を克服する方法は、従来の教育の欠陥を改善する方法として多いに役にたつのである。できるだけ柔軟、かつ創造的にこうした対立を解決していくことが必要ではないか。