日本は本当に能力主義社会か9 中教審46答申の検討2 高等教育

 かつて文部省は、高等教育の内容については、ほとんど口を挟まなかった。中心は初等教育と中等教育だったのである。その伝統は、この46答申でも、完全には払拭されていない。1960年代の末に、大学紛争が荒れ狂い、東大と東京教育大の入試が中止となる事態にまで発展していたために、大学管理に関する臨時措置法で、大学管理に強い介入を行なったことから、次第に大学への政策的関与を強めていく傾向は生じていた。この46答申でも、わずかに積極的な提言がみられ、実現されたものもあった。
 しかし、最初に提起される高等教育の多様化政策は、現存の高等教育の種類をそのまま追認したものに過ぎない。以下のように分類するというのだ。
 第1種の高等教育機関(大学) 3~4年程度  総合領域型・専門体系型・目的専修型
 第2種 (短期大学) 教養型・職業型
 第3種 (高等専門学校)゛ 
 第4種 (大学院)3年程度の高度の学術の教授と社会人への再教育
 第5種 (研究院) 博士の学位にふさわしい高度の学術研究
 それまでは、ほとんどの場合大学院修士課程のあとに博士課程が続く制度だったが、最初から修士(大学院)と博士(研究院)を分けた制度を構想した点が新しいが、しかし、実際にそのように改変した大学院は、少数だった。
 

 そして、教育課程の改善という項目では、以下のような内容が提起されているが、これは実際に変更されていく要素をもっていた。
・教育課程の改善
(1)  これまでの一般教育科目の教育がねらいとした諸学の総合理解,学問的方法の自覚,文化史的な問題や人間観・価値観の把握などの目標については,それぞれの教育課程の中に含めて総合的にその実現をはかる。
(2)  専門のための基礎教育として必要なものは,それぞれの専門教育の中に統合する。
(3)  外国語教育は,とくに国際交流の場での活用能力の育成に努めることとし,必要に応じて学内に設けた語学研修施設によって実施し,その結果について能力の検定を行う。(外国語・外国文学を専攻する者については別途考慮する。)
(4)  保健体育については,課外の体育活動に対する指導と全学生に対する保健管理の徹底によってその充実をはかる。(以上)
 
 戦後の新制大学は、2年の教養課程と専門課程に分けて、教養科目についての必修単位を設定していた。例えば、人文科学、社会科学、自然科学、それぞれ3科目12単位、語学、体育など、最低単位が規定されて、それは必修だった。そうした単位については、特に後期の専門課程の教授たちから、常に批判が沸き起こっており、結局、この答申以降、徐々に教養科目の縛りが緩くなり、現在では、まったく必修として課さなくても可となっている。教養課程を廃止した大学も多く、現在学部として全学生が前期に学ぶ教養学部が残っているのは、東大だけである。
 このことは、大学スタッフのなかで、教養科目専任は非常に少ないことを意味する。したがって、現在の大学教育のなかで、「教養」の必要性を主張する人が少ないために、教養科目の削減は、自然に進んでいったのである。しかし、大学で学ぶ目的は、必ずしも専門教育ではないはずである。アメリカは、厳密な意味での専門教育は大学院で行い、学部段階は教養を学ぶ原則である。専門と教養の関連については、もっと大きな論議になるべきではないだろうか。私の見解では、大学において、自分の専門に関連する科目だけを学ぶことが、将来専門家として伸びていけるのかは、甚だ疑問である。いつでも、教養科目を履修できるようにしておく必要はあるのではなかろうか。
 
 その他主だった提言を項目だけあげておくと、教育工学的方法の活用、少人数教育の拡充、体育・文化的活動の指導センターと指導員の設置、教育組織と研究組織の分離、大学の開放と単位制の拡充、管理体制の強化、財政援助方式の改善(民間からの援助を可能に)、寮の見直し、大学入学者選抜制度の改善、入学以降の成績の重視等である。
 このなかで、現実に実行され、後の影響を与えた事項を確認しておこう。
 教育組織と研究組織の分離は、筑波大学の設立によって果たされた。それまでの大学は、研究と教育を統一的に行なうことを前提に、教師も学生もひとつの組織形態に配置されていた。もちろん、研究と教育の比重は、大学によって異なっていたが、二重組織になっていることはなかったである。しかし、東京教育大学を改組して作られた筑波大学は、研究組織と教育組織が分かれている。当然領域のきり方などが、異なってくるわけである。
 筑波大学の設立は当時大きな問題となり、反対運動もかなり強く行なわれた。私は、成立準備過程から、設立まで、学生と院生としてみていたが、やはり、研究と教育は統一的に行なわれるべきであると考えていた。思考の柔軟性がまだ不十分だったともいえる。しかし、その後、教育の論理や必要なこと、そして領域区分と、研究の領域区分はかならずしも一致しないことが多いことに気づき、今では、研究と教育が異なる組織で行なわれることは、あってもよいと考えている。筑波大学は、国策大学というような地位をもって設立されたので、文科省のてこ入れは非常に大きく、新しい大学としては、条件的に恵まれた大学として発展した。
 次に、入学者選抜の改革として、共通一次試験が導入された。高校間の格差を是正するという意味合いで、この答申は位置づけていたが、実際には、高校間格差を拡大し、かつ大学まで偏差値の輪切り状態が作られていくことになった。その後センター試験、共通試験と名称を変えて継続している。
 もう少し現実化してほしかったのが、大学の開放と単位制の拡充である。
 今でも、大学は基本的に固定的な教員と学生で構成されている。だから、どの大学を卒業したかが問われる「学歴社会」が根をはっている。しかし、大学が開放的な組織になり、単位制が拡充して、どの大学でも学ぶことができ、その単位が認定されて、卒業資格につながるようになれば、無駄な受験競争は廃止することができ、かつ、どの大学を卒業したかではなく、何を学んだかを示すことになる。
 管理体制の強化は、その後確実に進んだ。学長に権限をもたせることについては、それだけではなく、国立大学が独立法人になった際に、教職員による選挙で選ばれる制度に大きく制限をした。今では、選挙で学長が選ばれる国立大学は、非常に少なくなっている。私が勤務していた大学では、職員まで含めた選挙制度が実施されているが、以前は、理事会の任命であった。その時代に比較すると、大学運営の透明性は格段に進み、やはり、文科省のとっている路線は、大学の管理運営としては、反対の道を進んでいるといわざるをえない。
 積極、46答申によってもっとも進んだ高等教育分野は、大学の管理体制の強化だった。学生運動は、確実に下火になっていった。それは文部省の管理強化が最大の要因といえる。しかし、そのことによって、全体としての大学の活性化がなされたかは、疑問である。そして、鮮明に高等教育の姿をかえたのは、共通一次試験導入による、大学の偏差値序列化だろう。更に大きな変化が訪れるのは、国立大学の独立法人化によるものだといえるが、それは別稿で考察する。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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