ヴェルディ「トロバトーレ」への思い

 ヴェルディ中期の3大傑作といわれる「リゴレット」「トロバドーレ」「椿姫」は、すべて本当に全編素晴らしい音楽で満ちあふれている。そして、それぞれ特徴的な性質があるが、トロバドーレは、なかでも際立った特色がある。音楽は、美しいメロディーがずっと続くが、エネルギーに満ちている。内に向かうのではなく、あくまでも外に放射するような熱がある。これがトロバトーレの最大の魅力といえる。そして、もうひとつ、オペラはあくまでも筋をもったドラマであるから、劇としての魅力も大切であり、優れたオペラは、劇としても優れているのが普通だ。あまり台本の質を考慮せず、依頼の仕事を引き受けたために、オペラとして成功しなかった作曲家として、シューベルトとヨハン・シュトラウスがいる。(後者は「こうもり」のみ成功)では、トロバトーレはどうかというと、誰もが感じるように、あまりに奇怪で、奇妙奇天烈な筋なのだ。
 まず、最初に、その奇妙な筋を確認しておこう。
 最初ルーナ伯爵の家臣フェランドが兵隊たちに、過去の話をするところから始まる。
 先代ルーナ伯爵の次男をジプシーの老婆が占うと、次男が病気になったので、老婆は火刑に処せられた。しかし、焼け跡から子どもの骨が出てきた。それが次男だと思われたが、今のルーナ伯爵は、弟が生きていると思って探しているという話である。

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『コシ・ファン・トゥッテ』(モーツァルト)の魅力

 モーツァルト作曲のオペラ『コシ・ファン・トゥッテ』は、長く人気のない演目だった。おそらく、初演の際に5回、その後4回上演されたそうだが、すぐに打ち切りになり、その後、第二次大戦後までは、ほとんど上演されないままに来たのではないだろうか。モーツァルトのオペラ自体が、ヴェルディやワーグナーの巨大なオペラが好まれた19世紀には、あまり人気がなかった。唯一例外は『ドン・ジョバンニ』だったようだ。それでも、『フィガロの結婚』や『魔笛』は、それなりに上演されていたと思われるが、『コシ・ファン・トゥッテ』は、題材がナンセンスということの忌避感もあったらしい。
 戦後になって、カラヤンは一度だけレコーディングしたが、上演はしていないのではないだろうか。一人ベームが頑張っていた印象だ。1970年代になると、ベームのザルツブルグ音楽祭の長期上演があり、ムーティに引き継がれ、更にこれもヒットした。このあたりから、見直しが始まって、今では、完全に人気曲になっている。蛇足だが、小沢が生まれて初めてオペラを振ったのが、ザルツブルグ音楽祭の『コシ・ファン・トゥッテ』で、もちろんオケはウィーン・フィルだった。私は一年で打ち切りだと長く誤解していたが、契約通り二年上演されたということだ。まったくオペラ経験のない小沢は、アバドなどに助けられて、オペラ指揮のテクニックを学んだようだ。小沢自身は、非常に楽しかった思い出と語っているが、世間的には、この上演によって、小沢はオペラはだめ、とウィーン・フィルによって評価されてしまったということになっている。言葉のハンディが大きかったようだ。それに、いくらなんでも、人生で初めて振るオペラが、ザルツブルグ音楽祭で、ウィーン・フィル相手のモーツァルトだ、というのは、いかにも無謀で、小沢らしいが、カラヤンもびっくりしたらしい。

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ジュリーニの「リゴレット」を聴いて

 カルロ・マリア・ジュリーニ指揮の、ヴェルディ作曲「リゴレット」を聴いた。これは、LPでももっていたが、LPは機械をもっていないので、処分してしまった。リゴレットを聴きたくて、ジュリーニのウィーン・フィルシリーズを購入して、聴き直したわけだ。ボックスで購入すると、単体よりずっと安くなるのでよい。しかも、今回はまったくダブリがなかった。
 リゴレットには、いろいろな思い出がある。ずっと昔のことになるが、二期会の公演を聴いたのが、唯一の生演奏だが、栗林善信がリゴレットを歌っていて、声よりは、演技に強い印象をもった。それ以来実演は接したことがないが、録音や録画ではいろいろと聴いてきた。

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ウィーン国立歌劇場150周年ボックス

 ウィーン国立歌劇場150周年記念CDボックス(22枚組)を、やっと全部聴き終わった。CDやDVDのボックスは多数もっているが、全部聴いたのはあまりない。それだけ魅力的なボックスだ。
 ウィーン国立歌劇場は、第二次大戦時の爆撃でほぼ消失してしまったので、再建に10年かかるという、かなり難事業で再開された。その戦後の主なオペラの全曲と、抜粋によって構成されている。 “ウィーン国立歌劇場150周年ボックス” の続きを読む

レコーディングでの不思議な例

 オペラの録音は大変なコストがかかるし、成功するには様々な条件を満たす必要がある。だから、途中で放棄された計画も少なくないだろう。そういうなかで、有名なミステリーともいうべきふたつの例を、何故そんなことになったのか、想像をしてみよう。
 第一は、オットー・ゲルデス指揮、ワーグナーの「タンホイザー」である。これは1968年から69年にかけて録音されたレコードで、今でも現役として発売されている「名盤」である。タンホイザーがヴィントガッセン、ヴェーヌスとエリザベードの二役でニルソン、ヴォルフラムがフィッシャー・ディスカウ、ヘルマンがテオ・アダムというキャストで、ベルリン・ドイツ・オペラの演奏だ。レコード会社はドイツ・グラモフォン。
 クラシックファンならば、たいていの人は知っている演奏で、この盤そのものの存在は知らなくても、オペラファンならば、この歌手陣をみれば、ほおーと思うだろう。それだけ超強力歌手たちである。そして、よほどの情報通でなければ、ゲルデスって誰だということになる。

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ベームの「コシ・ファン・トゥッテ」を聴いて

 以前は、モーツァルトのオペラの最高傑作は「魔笛」だと思っていたが、今は断然「コシ・ファン・トゥッテ」だと思っている。ただ、このオペラは、モーツァルト生前には5回しか演奏されず、その後もずっと不遇のままだったそうだ。戦後になっても、かなり時間が経過してから上演されるようになり、今では多くの人に親しまれている。おそらく、最初の全曲録音は、カラヤンのフィルハーモニア菅を振ったものだったと思う。しかし、その後カラヤンは「コシ・ファン・トゥッテ」を取り上げていない。モーツァルトの他の主要オペラであるフィガロ、ドン・ジョバンニ、魔笛は、いずれも複数の録音があるのに、「コシ・ファン・トゥッテ」のみはこの一回きりだ。おそらく、フルトヴェングラーが「マーラーはワルターに任せた」というような感じで、「「コシ・ファン・トゥッテ」はベームに任せた」という感じだったのだろう。カラヤンに限らず、昔の指揮者にはそういう面があったようだ。カラヤンは、ビバルディの「四季」を長く録音しなかったが、イムジチの録音があるからいいではないか、と語っていたそうだ。

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オペラ「ボリスゴドノフ」リムスキーコルサコフ改訂版も悪くない

 普段は、かなり部分的にしか見ないDVDを久しぶりに全曲視聴してみた。「ボリスゴドノフ」は、ユニークなオペラだ。また、私にとっても、思い出深いものでもある。
 何がユニークかというと、オペラの題材として、その国のトップの人物が主人公になっているものは、他には思いつかない。伯爵などのような貴族が主人公というのは、いくつかある。「セビリアの理髪師」「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」等。しかも、ボリスゴドノフは歴史上の実在の人物であり、悲劇的な死をとげる。だからオペラも、とにかく、全編暗い、陰謀だらけの話である。しかも、唯一美しい音楽が流れるポーランド貴族の娘であるマリーナの部屋以外は、音楽もほとんどが重苦しい。作曲したムソルグスキーが、最初の草稿を、劇場当局に見せたところ、あまりにも暗い話、暗い音楽なので、もっと女性を登場させなさいというアドバイスがあって、マリーナの場面が付け加えられたと言われている。劇場が不当な要求を、ムソルグステーに押しつけたという批判があるらしいが、実際のところは、ムソルグスキー自身がその批判をもっともだと思い、改作をしたものが、通常上演されている。ごく稀に第一稿の演奏やCDもあるが、私はマリーナの場面が一番好きなので、第一稿は視聴する気がおきない。 “オペラ「ボリスゴドノフ」リムスキーコルサコフ改訂版も悪くない” の続きを読む

ベルリオーズの「ファウストの劫罰」

 ベルリオーズの「ファウストの劫罰」は、ずいぶんと奇妙な音楽だ。もちろん、ゲーテの「ファウスト」の内容に剃った音楽だが、構成は違うところが多いし、また、原作にはない場面が挿入されていたりもする。また、ベルリオーズ自身が、どのような形態での上演を考えていたのかも、あまり明確ではないようだ。
 更に、ゲーテのファウスト自体が、現在、原作のままで上演されることはあるのだろうか。私は、2003年に、ドイツで実際にファウストの野外公演を見たことがある。しかし、それは、原作をかなり短縮したもので、野外だから、あまり仕掛けはなく、リアルな形式での上演だったように思う。話題になったのは、メフィストフェレスが女性だった点だった。メフィストフェレスは悪魔だから、男性に限定することもないのかも知れないが、通常は男性がやる。ドイツ人に、女性だったと話したら、怪訝な顔をしていた。 “ベルリオーズの「ファウストの劫罰」” の続きを読む

蝶々夫人のオリジナル版

 昨年二期会の「蝶々夫人」を聴きにいったので、多少このオペラに関心が高まっていた。私はプッチーニは、「ボエーム」以外はあまり好きではないので、「蝶々夫人」も敬遠してきた。だから、いまだに細かいところまで理解ができていないのだが、リッカルド・シャイーが「蝶々夫人」の第一稿による公演をして、それが市販されていることを最近知り、アマゾンで購入して早速聴いてみた。
 オペラ好きの人には、よく知られていることだが、今日名作とされて、頻繁に上演されているこのオペラも、初演は大失敗で、一日だけで引っ込めてしまい、2カ月後に改訂版を上演して成功をおさめたとされている。初演を指揮したのは、著名なトスカニーニで、彼の忠告で2幕構成を3幕構成に改訂して、今に至っている。
 演奏はミラノのスカラ座のもので、歌手、指揮、オーケストラすべて優れている。演出もなかなかよかったが、私の興味はバージョンなので、そこに絞って書く。HMVのレビューで村井翔氏が、第一稿がもっとも優れているとずっと思っていたと書いているが、音楽よりは、劇の進行上、第一稿のほうが多少合理性があるように感じる。ただ、音楽という点では、「ボエーム」はどこをとっても魅力的な音楽だが、「蝶々夫人」はけっこう退屈な部分があるので、より長い第一稿は、まだすっと入っては来ない。唯一、何度も聴く第一幕最後の二重唱は、多少違う部分があったが、改訂版(通常演奏される)のほうが優れているように感じた。 “蝶々夫人のオリジナル版” の続きを読む

オペラ随想 聴衆の登場とオペラ

 現代の音楽に限らず、演ずる芸術は、聴衆の存在があって初めて成立する。文学にとっては読者が必要だが、まったく読者がつかない文学はありえる。そして、死後評価されるようになる文学も存在する。しかし、音楽は、聴く者の存在なしには存立し得ないといってよい。聴くものがいないまま、作曲家が死んだあと、何かのきっかけで、その作曲家の作品の人気がでることは、個別の曲としてはあるが、作曲家としては、私の知る限り存在しない。有名な作曲家は、生きているときから有名だったのである。何故そうなのか、確信はないが、おそらく、音楽は、創作(作曲)と鑑賞者(聴衆)の間に、演奏者という媒介者が必要だからではないと思う。古くは、作曲家が演奏することが多かったにせよ、やはり広く知られるようになるためには、他の音楽家によっても演奏されることが必要だったろう。特に、ロマン派以降は、作曲家と演奏家は分離してくるから、尚更である。演奏家もプロだから、曲への共感がなければ演奏しない。演奏家がすばらしい音楽だと思うから演奏する。そして、優れた音楽だと感じれば、今度は、演奏家が自分の存在意義として、活発に演奏して、広く知らしめるだろう。従って、優れた音楽を創作した作曲家は、聴衆をたくさん獲得し、そして、そのことによって、作曲家としての地位を固めていくことができる。 “オペラ随想 聴衆の登場とオペラ” の続きを読む