ウィーン国立歌劇場150周年ボックス

 ウィーン国立歌劇場150周年記念CDボックス(22枚組)を、やっと全部聴き終わった。CDやDVDのボックスは多数もっているが、全部聴いたのはあまりない。それだけ魅力的なボックスだ。
 ウィーン国立歌劇場は、第二次大戦時の爆撃でほぼ消失してしまったので、再建に10年かかるという、かなり難事業で再開された。その戦後の主なオペラの全曲と、抜粋によって構成されている。
 曲目と指揮者は以下の通り。すべてライブ録音である。
・アルバン・ベルク「ヴォツェック」カール・ベーム指揮 1955年
・ベートーヴェン「フィデリオ」カラヤン指揮 1962年
・リヒャルト・シュトラウス「エレクトラ」ベーム指揮 1965年
・モーツァルト「フィガロの結婚」カラヤン指揮 1977年
・ロッシーニ「ランスへの旅」アバド指揮 1988年
・ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」フェルザー=メスト指揮 2013年
・チャイコフスキー「エフゲネ・オネーギン」ネルソンス指揮 2013年
・リヒャルト・シュトラウス「ナクスソ島のアリアドネ」ティーレマン指揮 2014年
・ヴェルディ「仮面舞踏会」コボス指揮 2016年
 演奏は戦後の選りすぐりのものなので、文句を付けるものはない。聴き応えのあるボックスだった。しかし、構成としては、不満がある。それは、選ばれていない指揮者がいること。総監督だったマゼールと、2番目に長く音楽監督を務めた小沢が、全曲だけではなく、2枚のハイライトのほうにも出てこない。ウィーン国立歌劇場の歴史の俯瞰という意味があるのに、これはないだろうと思う。音楽監督ではないのに、選ばれている指揮者が3人いるのに。ネルソンス、ティーレマン、コボスの3人だ。それから、カラヤンの選曲にも不満がある。個人の好みかも知れないが、「フィガロの結婚」は、ほぼ同じメンバーのセッション録音があり、そういう点なら「ドン・カルロ」にしてほしかった。歌手は重なっていても、オケがセッションのほうはベルリンフィルだからだ。聴き比べの妙は「トン・カルロ」のほうが大きい。それから、フィデリオではなく、「タンホイザー」にしてほしかった。カラヤンのフィデリオはあちこちの録音があるが、タンホイザーは唯一欠けたワーグナーで、海賊版のウィーンライブがあったが、正規音源で加えてあれば、これだけでも購入する人がいるのではなかろうか。
 マゼールと小沢が入っていないことは、やはりウィーンのオペラだという印象を受けた。戦前もそうだったかはわからないが、戦後のウィーン国立歌劇場というのは、政治的駆け引きによるごたごたがずっと続いていた。現在のオペラ劇場は、経営者としての総監督と音楽面に関する音楽監督が分離していることが多い。大学では、理事長と学長が分離しているのが普通なのと同じだろう。戦後3人までは、音楽監督が総監督を兼ねていた。カール・ベーム、カラヤン、ロリン・マゼールの3人である。ところが、この3人はいずれも途中で辞任している。オペラ劇場というのは、数百人の専門家が一緒に働いている、しかも、かなりわがままな人たちの集まりだ。そして、ポストをめぐっては熾烈な競争がある。すると、派閥ができる。理由は異なるが、いずれも政争に巻き込まれたといえるだろう。黄金時代を築いたカラヤンが、最も激しい感情の縺れが生じた形での辞任だった。
 カラヤンに去られて、ウィーンは彼に代わるスターを探して、見つけたのがバーンスタインだったが、バーンスタインは、ウィーンフィルのスターにはなれたが、国立歌劇場のスターにはなれなかった。1960年代までアメリカで活動したバーンスタインには、オペラは無理だったのである。それで、マゼールと契約したが、2年で辞任。次のアバドも5年で辞任した。この二人の辞任は、いずれも、反対派の圧力のようなものだった。アバドのときには、総監督のヴェヒター(かつての名バリトン歌手)が、なんとかクライバーに来てほしくて、画策したようだが、クライバーにはまったくその気がなく、アバドに去られたあとは10年も音楽監督の空席が続く。そして、やっと小沢征爾を迎えるが、実は、日本人としては残念なことだが、小沢のウィーンでの評判は散々だった。小沢はバーンスタインよりもはるかにオペラに縁のない指揮者だった。かなり名声を獲得したあとに、懸命に勉強したが、オペラはなんといっても、ドイツ語、イタリア語、フランス語を相当程度自由に操ることができなければ、楽団員や歌手たちから信頼をえられない。だが、小沢だけが、戦後音楽監督として、任期を全うしているのである。小沢のあと、やっとオーストリア人のメストに就任してもらったが、これも4年で辞任。6年の空白のあと、今年のシーズンから、ジョルダンという指揮者が音楽監督に就任した。
 ウィーンの最大の「産業」が、国立歌劇場であり、ウィーンフィルをはじめとするいくつかのオーケストラである。おそらく他の都市にはみられない現象だろう。だからこそ、ウィーンのオペラは、国家も最大限の力をいれるし、水準も高いのだが、その裏では人々の暗躍がある。
 このオペラボックスで、音楽監督だったマゼールと小沢がまったく除外されていることは、その表れとはいわないが、そうした政争じみた暗躍を思い出させる。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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