池袋暴走事故に思う

 2019年4月に起きた、87歳の高齢者による暴走事故(2人が死亡、8人が重軽傷)の初公判が行われ、被告人は車の異常による事故だという理由で、無罪を主張したと報道されている。そして、無罪の主張に憤りも示されている。おそらく弁護士による作戦であろうし、被告人は自分を弁護する権利があるのだから、そのことについて非難するのもどうかとは思うが、ただし、裁判官の心証が悪くなることは確かだろう。
 この事故をきっかけに、高齢ドライバーの運転を認めるべきではないという意見なども出され、高齢者の運転に関する議論が活発になった。私自身、高齢者であるし、車も運転するので、他人ごとではない。事故が起きた当時にも、書いたが(http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=715#more-715)、そのときには、道路環境を中心に考えたので、今回は、高齢者の運転そのものについて考えてみる。

 まずこの事故を知ったとき、87歳の人が、池袋を運転するのかということだった。私自身は、東京で育ったが、千葉県に住んでいるので、東京で運転した経験は非常に少ない。東京には車で行かないし、通り過ぎるときには高速なので、通常の道路を運転するのは正直怖い。だから、よほどの事情がない限りは、東京の市街地は運転しない。この方は、もちろん、東京在住だから、普段から運転していたのかも知れない。しかし、この場合、運転すること自体が、私には解せないのである。池袋という人も車も非常に多い、混雑した街だから、よほどの注意力がないと安全には運転できないはずだ。しかも、公共交通機関が発達している地域でもある。何か予約していたレストランに、遅れそうになったから急いでいたと報道されているが、それならば、当然タクシーを使えばいいことだ。お金には全く困っていなかった人なのだから、何故家族は、タクシーを勧めなかったのだろうか。しかも、その車には、夫人が助手席に座っていたという。当日の毎日新聞の報道から抜粋してみよう。
 夫人「危ないよ、どうしたの」と声を荒らげた。
 本人「あー、どうしたんだろう」と応じる。
 その後息子に「アクセルが戻らなくて、人をいっぱいひいちゃった」と電話。
 パニックになったかどうかはわからないが、事故後の対応は意外と冷静だったという感じだ。
 警察の調べによって、車のブレーキ系統の異常はなかったということだから、過失致死傷罪が適用されることは、ほぼ間違いないだろう。
 ただ、それだけで済むのか、という議論が起きたのは、単なる「過失」ではなく、「故意」に相当する事例ではないか、という見方があったからだと考えられる。交通事故が「故意」に起こされることは、滅多にないが、通常の故意犯ではなくとも、未必の故意に近い概念を適用するような事例もあるたろう。飲酒運転による事故は、単純に過失とはいえない。飲酒後の運転は、極めて危険であることは、誰でも知っているのだから、飲酒運転は、事故が起きる可能性があること認識していたことになる、と解釈されるべきであると、私は考えている。ドラッグも同様だ。飲酒運転やドラッグ摂取状態での運転は、意識がないから無罪だ、などという主張があるが、まったく逆と考えねばならない。
 では、高齢での運転はどうなのか。当時は、まるで、高齢運転そのものが罪であるような議論もあったが、さすがに、そういう議論は今はあまり見かけない。しかし、高齢になれば、反応や判断力が低下することは間違いないから、他の年齢層と異なる扱いをすることには、合理性がある。高齢者である私もそれは同意している。だからといって、高齢者の運転を禁止することには納得できない。自分の意思で移動ができなくなれば、それだけ心身の衰えが進むことになる。免許更新の際に、若年にはやらないテストなどをしているようだが、それは、むしろ、日常的に、自分でもできるようなホームページに掲載しておくのがよいだろう。
 さて、今日のyahooニュースに、「上級国民大批判の裏で、池袋暴走事故の加害者家族に起きていたこと」と題する阿部恭子氏の文章が掲載されている。(https://news.yahoo.co.jp/pickup/6373257)加害者もその家族も、被害者への申し訳なさと、更にバッシングに苦しんでいたという内容だ。息子への電話は直後ではなく、55分後だったこと、レストランは遅れても構わなかったこと、それまでは、事故などを全く起こしていなかったこと、等々が書かれている。
 確かに、当時、上級国民だから逮捕されなかったのはおかしい、などという非難が多かったが、逮捕というのは、逃亡や証拠隠滅を防ぐためのもので、本人が大怪我して病院にいれば、逮捕はしようがないし、必要もない。上級国民などということとは無関係であることは明らかだったから、そうした感情的非難は、冷静な議論を阻害するものだ。むしろ、通常の犯罪でも、逮捕は、本当に必要な場合にするべきで、一端逮捕しても、速やかに家宅捜査などをしたあとは、保釈すべきなのだ。交通事故などは、よほどのことでない限り、逮捕も不要だと思う。
 無罪主張には、驚いたが、阿部氏の文章に対するコメントのなかに、「それなら無罪主張なんかやめさせろ」というような内容のものがあったが、私は、無罪主張は、弁護士の法廷戦術でいれられたものだと思う。加害者は、官僚だったが、法学部ではなく工学部なので、実感がないのかも知れないが、常識的に自分が有罪であることはわかっているだろう。しかし、弁護士は、無罪にするために闘うものだ。特に、近年は、そういう傾向を感じる。運転に過失があった以上、(信号を無視して、市街地を90キロで突っ走ったのだから、過失であることは否定しようがない)無罪の論理は、車の故障以外にはない。しかし、加害者本人は、弁護士を説得して、有罪を認めたほうが、罪は軽くなると、私は思う。先に引用した毎日新聞の記事によっても、「どうしたんだろう」「アクセルが戻らなくて」という言い方からは、ブレーキを踏んでいない可能性が高い。だからブレーキが効かなかったというのは、ほぼありえないだろう。
 最後に、高齢者の運転に戻ろう。
 私自身が高齢者ドライバーとして、望むことは、安全装置がついた車への買い換えに、最大限の補助金を出してくれればいいということだ。現在の車には、自動ブレーキなどの装置はついていない。住んでいるところが、市街地ではないし、あまり運転もしないのだが、(ステイホームで更に出歩くことがなくなってきた)東京と違って、公共交通機関がそれほど便利ではないので、必要なときには車に頼ることが多い。
 次にはなかなか難しいが、道路の整備、そして信号だ。歩道を広くしっかりとるような道路は、車にもゆとりを与える。また、信号の方式によって、危険度がずいぶん変わる。交差点は原則スクランブルにし、右折は右折矢印方式にする。これだけで、ずいぶん事故が減るように思う。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です