『教育』2020.10号を読む 山本宏樹「インターネットを生きる子どもたち-その保護と教育」

 山本宏樹氏の「インターネットを生きる子たち-その保護と教育」を取り上げたい。
 一読して、正直なところ、憂鬱な気分になった。ここに書かれていることは、間違っていない。子どものネット利用に関して、様々な数値が書かれているが、そういう調査があるのだろう。ネット利用の光と影についても、例が出されている。これも、そういう事実があるのだろう。そして、終りのほうに、優れた実践が書かれている。
 では、何故憂鬱な気分になるのか。
 間違ってはいない「事実」が書かれ、優れた実践が紹介されているからといって、適切な方向性が示されるわけではないという、極めて典型的な文章だからである。私の知人は、こうした文章は、ICT活用に対するラッダイト運動だと評している。私は、そこまで言う気持ちはないが、しかし、いいたくなる気持ちはわかる。
 山本氏は、最初に、「子どものネット利用の現状」についての様々な数値を紹介している。内閣府の今年1-2月の調査だという。幼児から利用が始まっていて、動画、コミュニケーション、音楽などが利用の上位3位だそうだ。休校措置で利用は増大し、学習・知育の利用も拡大している。ただし、それは、公教育における学習・知育活用ではないようだ。
 その次に「インターネットの光と影」が来る。
 光は、情報への無料のアクセス、匿名での相談、出会い、オンラインの教育提供が、ごく簡単に触れられている。わずか17行である。
 次に影だ。バイト先での悪戯による炎上、個人情報の晒(消せない)、ネットいじめ、興味本位での爆薬やドラッグ入手、著作物の違法ダウンロード、ゲームなどによる時間の争奪。そして「裏アカの功罪」という節もたてられているが、影の一部だ。そこでは、ネットで知り合って実際に会い、被害にあう者がいる、しかも低年齢化が進んでいる。この「影」の記述には、102行が費やされている。
 そのあとには、インターネット・リテラシー教育の必要性、そのための「チュートリアル・ゾーン」による「免許制」が提示されている。それを支持しているわけではないが、その方向もありだというニュアンスが感じられる。
 そして、リテラシー教育をすると、かえって、脱法行為や不道徳行為を助長する危険もあるから難しいとして、参考になる実践を紹介する。男子高校で、「アダルトビデオと現実の恋愛のちがい」を雑談すると、真剣に聞いてくれるという事例と、七生養護学校事件の判決から、個々の状況、ニーズにあった教育をすること、そのためには、「教育の自由」が必要だと結論を出している。
 さて、私が憂鬱な気分になったというのは、確かに間違ったことが書かれているわけではないが、こういう発想で書かれた文章からは、適切な方向性は決して出てこないと思われるからだ。
 「光と影」という題をつける人は、ほとんどが「影」を重視して、なんとかその対象を広めないようにしたいという感情が強い。山本氏は、正面切って問われれば、インターネットやICTは重要だというだろうが、少なくとも子どもたちには、自由に使わせたくないという感情だと思わずにはいられない。それが、光と影の行数の差異に自ずと滲み出ている。
 影は困るわけだから、当然、このような感覚の先生がいたら、子どもたちに、これこれはしてはいけないよ、こういう危険があるよ、こうやって人を傷つけることがあるんだよ、というお説教をするに違いない「チュートリアル・ゾーン」で講習を受けさせて、免許を発行するという。そんなことを学校や教師が実施したとしたら、子どもたちは無視して、勝手に家庭で自由気ままにネットを利用して、やりたいことをするに違いない。教師たちの手を離れしてしまうわけだ。実際に、そのようになってきたのではないだろうか。それが、日本のIT利用の遅れを生じさせてきたわけだ。
 そして、山本氏は実践例を出している。しかし、それは、ネット活用とどう考えても関係がない。何故、これがネット活用のよき事例として出てくるのか。ネットを悪用(?)してみたアダルトビデオと実際の恋愛の違いを教えることは、それはそれとして価値があるだろうが、好ましいネット活用の方法を、その事例から学ぶものがあるのだろうか。
 結局、山本氏は、正しい事実をあげながら、まったく後ろ向きの方向しか示していない。山本氏もちゃんと主張しているように、「教育の自由」がICT活用、ネット活用の場面では重要なのだ。しかし、「影」の強調は、そうした自由とは相反するものである。教師は、結局、自ら不自由を前面に出している。だが、子どもは、実際には自由に扱って、どんどん好きなことをやるのだ。
 では、影をどうやって克服するのか。それは、影を意識して、リテラシーの強調などをするのではなく、ネット活用をすると、こんなに楽しいのだ、こんなに知りたいことを知ることができる、充実感が広がる、ということを、実践のなかで体験させていくことだ。そういう活用を知り、また、日常的に実施するようになれば、ネットいじめや脱法行為など、自然にしなくなるはずである。また、そうした体験をさせることができなければ、いくらお説教しても、家庭に帰れば、してはいけないことをするものなのだ。だから、山本氏は、そういう積極的な実践事例をたくさん集めて紹介する必要がある。もし、教科研が、そういうことを軽視して、影の撲滅ばかり考えているために、実践例がほとんどないのだとしたら、それこそが教科研としての反省材料であり、方向転換するべく論じなければならない。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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