ヴェルディ「トロバトーレ」への思い

 ヴェルディ中期の3大傑作といわれる「リゴレット」「トロバドーレ」「椿姫」は、すべて本当に全編素晴らしい音楽で満ちあふれている。そして、それぞれ特徴的な性質があるが、トロバドーレは、なかでも際立った特色がある。音楽は、美しいメロディーがずっと続くが、エネルギーに満ちている。内に向かうのではなく、あくまでも外に放射するような熱がある。これがトロバトーレの最大の魅力といえる。そして、もうひとつ、オペラはあくまでも筋をもったドラマであるから、劇としての魅力も大切であり、優れたオペラは、劇としても優れているのが普通だ。あまり台本の質を考慮せず、依頼の仕事を引き受けたために、オペラとして成功しなかった作曲家として、シューベルトとヨハン・シュトラウスがいる。(後者は「こうもり」のみ成功)では、トロバトーレはどうかというと、誰もが感じるように、あまりに奇怪で、奇妙奇天烈な筋なのだ。
 まず、最初に、その奇妙な筋を確認しておこう。
 最初ルーナ伯爵の家臣フェランドが兵隊たちに、過去の話をするところから始まる。
 先代ルーナ伯爵の次男をジプシーの老婆が占うと、次男が病気になったので、老婆は火刑に処せられた。しかし、焼け跡から子どもの骨が出てきた。それが次男だと思われたが、今のルーナ伯爵は、弟が生きていると思って探しているという話である。

 そして、その後の話の展開で分かってくることだが、その弟は、マンリーコとなって、老婆の娘によって育てられて、吟遊詩人でありながら、部隊の長になっている。そして、ルーナ伯爵の女官レオノーラは、マンリーコに惹かれ、ルーナ伯爵は、レオノーラを愛している。三角関係だ。
 ある夜(第一幕第二場)、ルーナ伯爵が立っているところに、マンリーコに会いにレオノーラがやってくると、マンリーコの歌が聞こえたので、ルーナ伯爵をマンリーコと間違えて、レオノーラは伯爵に抱きつくが、そこにマンリーコがやってきて、レオノーラは間違ったと誤るが、ルーナ伯爵とマンリーコは決闘になる。マンリーコが勝つが、とどめをさせない。(兄であるが故、ということが暗示されている。)
 第二幕では、有名なアンビルコーラスのあと、老婆の娘であり、マンリーコを育てているアズチェーナが、マンリーコに過去の話を聞かせる。母が火あぶりになったので、復習のために、次男をさらって火に放り込んだが、実際には、自分の子どもを放り込んでしまったというのだ。それで、マンリーコは、自分が本当の子どもではないのかと問うが、アズチェーナは、自分の子どもだ断言する。
 そこに、レオノーラが悲観して、修道院にはいろうとしているという話がはいってくるので、マンリーコはでかける。ルーナ伯爵も修道院入りを阻止しようと待っているが、そこにマンリーコがやってきて、争いになり、マンリーコがレオノーラをつれて去ってしまう。
 マンリーコを追ってきたアズチェーナが、ルーナ伯爵の家来たちに捕まってしまい、尋問されると、老婆の娘で、弟の殺害者であるというので、火刑に処することを決める。
 お互いの愛を誓い合っていたマンリーコとレオノーラに、アズチェーナ逮捕と火刑の知らせがくるので、マンリーコはすぐに救いにでるが、結局、逆に捕まってしまう。恋敵であり、弟の敵の息子であるマンリーコも火刑に決するが、レオノーラが、自分がルーナ伯爵の愛を受けいれるから、マンリーコを助けてくれと頼み、伯爵は承知する。レオノーラは、それをマンリーコに伝えにいくと、彼は激しく彼女を叱責するが、毒を飲んでいた彼女は、その場に倒れてしまう。そして、だまされたルーナ伯爵は、直ちに、マンリーコを火刑にかけるが、それを聞いたアズチェーナは、マンリーコこそ、ルーナ伯爵の弟だ、復讐がなったと叫んで、オペラが終わる。
 
 こんな筋だ。どうだろうか。ヴェルディはこの話を、台本として自分で選んだのだという。ヴェルディでは、常識ではありえないような人間ドラマが好きだったのだろうか。ビクトル・ユーゴー原作の「エルナーニ」なども、ありえない筋が展開する。
 トロバトーレの筋のどこが変か。いろいろあるが、マンリーコとルーナ伯爵に対するレオノーラの感じ方だ。マンリーコに対しては、自分が死んでも守りたいほど愛しており、逆に、ルーナ伯爵は、一緒になるのは死んでもいやだというほど嫌っている。だが、ルーナ伯爵は自分が使える殿様であり、マンリーコは、対立する武将で、しかもジプシーの一員として暮らしている。そして、確実ではないが、二人は双子であるとされている。双子の兄弟に対して、命をかけるほどの愛憎の差が生じるのが、あまりに非現実的であり、しかも、殿様に求愛されているのにもかかわらずなのだ。
 そして、何よりも不思議なのは、アズチェーナだ。一体、何を考えて、マンリーコを育ててきたのだろう。城主の子どもをさらって、自分の母親が火あぶりなっているの火のなかに、放り込んだと思ったら、それは自分の息子だった、というのも、あまりに突飛な設定だが、そのあと、本物の城主の息子を大事に育てている。息子が危険なところにいけば、心配になって、探しにいくほどに愛情をもってしまっている。ところが、ルーナ伯爵、つまり兄によって火刑にされると、復讐が成就したと叫ぶ。一体助けたいのか、殺したいのか。助けたいのであれば、一言、あれは、お前の弟なのだ、といえば済むことだ。
 考えれば、考えるほど、不可解な点か出てくる話だが、音楽は、とにかく素晴らしい。
 オペラは、歌手、指揮者、オーケストラ、合唱、そして映像の場合には演出という多くの判断要素があるので、みなが納得する決定盤は少ない。しかし、トロバトーレの場合には、2つの決定盤といわれる録音と映像がある。
 ひとつは、セラフィン指揮、アントニエッタ・ステルラ(レオノーラ)、カルロ・ベルゴンツィ(マンリーコ)、エットーレ・バスティアニーニ(ルーナ伯爵)、フィオレンツァ・コッソット(アズチェーナ)、ミラノスカラ座のオケと合唱団。
 もうひとつは、カラヤン指揮、ライナ・カバイヴァンスカ(レオノーラ)、プラシド・ドミンゴ(マンリーコ)、ピエロ・カプッチルリ(ルーナ伯爵)、フィレンツァ・コッソット(アブチェーナ)である。
 コッソットだけが、共通しているが、彼女に関しては、実際にライブでアズチェーナを聴いたことがあり、強烈な印象となって残っている。藤原歌劇団が外国人のソロと指揮を招き、日本人の脇役、合唱、オケで上演したときだ。会場は東京文化会館だった。私は、指揮がエレーデだったので、ぜひ行きたいと思って、けっこうチケットが高かったが妻と二人でいった。
 エレーデの指揮は、予想通り素晴らしかったのだが、コッソットがすごかった。最初のアリアが終わったとき、嵐のような拍手が起こり、それがいつまでも続いて、アンコールの声もたくさんかかったほどだ。そして、そのあとは、4人のソロによる格闘技を思わせる熱唱が続いた。先に書いたように、トロバトーレというオペラは、常に外に向かってエネルギーが放射されるような、情熱的な歌がずっと続く、珍しいオペラなのだ。だから、重唱で、誰かが弱いと、そのひとの声はかき消されてしまう。だから、消されないように、と思って歌っているかはわからないが、そのように聞こえてくるのだ。そして、そういう熱気をもたらしたのは、コッソットの最初のアリアと、その後の長い拍手だったと思う。
 その逆に、カラヤン指揮のウィーンでのライブでは、コッソットが最初のアリアが終わったあと、まったく拍手が起きないのだ。この映像を初めてみたとき、あれっと思ったものだ。もちろん、歌が悪いわけではない。コッソットも、なにか気抜けしたような表情をしている。「えっ?普通ここで拍手が盛大に起きるのだけど」という感じなのだ。この演奏は、ユーロビジュンでヨーロッパにライブ放映されていたので、あまり拍手はしないようにという、劇場からのアナウンスがあったのかも知れない。同じ年に、やはりライブ放映されたクライバーのカルメンも一幕目では、拍手が起きていないのだ。両方とも、3分の1くらいが過ぎるころから、大きな拍手が起きるようになる。
 このカラヤン盤は、比較的近くに録音されたEMI盤と、カフッチルリしか共通していない。カラヤンは、アンサンブルを重視していたので、同一曲は、できるだけ同じメンバーで録音、上演していた。しかし、レコード録音のほうは、レオノーラがレオタイン・フライス、マンリーコがボニゾッリ、アズチェーナがオブラスツォワである。ウィーンの上映少し前まで、ボニゾッリが起用されるはずだったが、急遽ドミンゴに代わったとされる。その際、ドミンゴは、ハイCはでないがそれでよいか、とカラヤンに確認したという話が残っている。実際に全音下げて歌っている。ボニゾッリは、ハイCを楽にだせることで有名だったから、私は、ボリゾッリで聴きたかった。また、録音ではレオタイン・プライスを起用したのに、なぜ、ウィーンでは使わなかったのか。録音に際して、レオノーラがなかなか見つからなく、あえて、けっこう高齢になっていたプライスを指名し、プライスは発声練習をやり直して録音に備えたと、インタビューで語っていた。(なお、プライスは、1962年のザルツブルグ音楽祭でのカラヤン指揮で、歌っており、発売形態がどのようなものかわからないが、カラヤン生前に、このライブ録音が発売された、めずらしい演奏で、それこそ、格闘技的な絶唱で有名なものだ。)映像をとるときには、やはり、役にふさわしい姿をしていることを、カラヤンは重視していたので、カバイバンスカに変更したのだろう。
 カラヤンは、よほどトロバトーレが好きだったのだろう。EMIとドイツグラモフォン、デッカは、カラヤンの全集をだしているが、そのなかにトロバトーレは3種類あり、その他に上記のウィーンライブがあり、4種類存在している。(4つ目は、マリア・カラスとのモノラル録音がある。)そういうオペラは、他に「バラの騎士」5種類があるだけだ。
 カラヤンとしては、どれを選ぶかといえば、やはり、映像であること、ライブであることで、決定盤といえるウィーンのライブ映像だ。
 音だけで聴く場合には、セラフィン盤は、カラヤン盤よりも優れていると思う。セッション録音なので、ライブのような危うさはないのに、とにかく熱いのだ。そして、声はすべて輝かしい。共通しているコッソットは、セラフィン盤のときは、カラヤンのときよりも13年前なので、非常に若い。ドラマとしては、一番年長だが、歌手のなかでは一番年下だろう。息子役より、母親役が若いのはおかしいだろう、という評もあるが、歌を聴いていると、そんなことは吹き飛んでしまう。女声としては、鋼鉄のような強靱に響く。コッソットのアズチェーナを生で聴けたのは、本当に幸運だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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