レコーディングでの不思議な例

 オペラの録音は大変なコストがかかるし、成功するには様々な条件を満たす必要がある。だから、途中で放棄された計画も少なくないだろう。そういうなかで、有名なミステリーともいうべきふたつの例を、何故そんなことになったのか、想像をしてみよう。
 第一は、オットー・ゲルデス指揮、ワーグナーの「タンホイザー」である。これは1968年から69年にかけて録音されたレコードで、今でも現役として発売されている「名盤」である。タンホイザーがヴィントガッセン、ヴェーヌスとエリザベードの二役でニルソン、ヴォルフラムがフィッシャー・ディスカウ、ヘルマンがテオ・アダムというキャストで、ベルリン・ドイツ・オペラの演奏だ。レコード会社はドイツ・グラモフォン。
 クラシックファンならば、たいていの人は知っている演奏で、この盤そのものの存在は知らなくても、オペラファンならば、この歌手陣をみれば、ほおーと思うだろう。それだけ超強力歌手たちである。そして、よほどの情報通でなければ、ゲルデスって誰だということになる。

 しかし、ゲルデスは、有名人である。ただし、それは指揮者としてではない。指揮者であることは知られているが、有名なのは、カラヤンの録音担当プロデューサーだったということだ。ドイツグラモフォンのカラヤンの録音は、多くがゲルデスによってプロデュースされている。指揮者だった彼の耳をカラヤンが信頼していたということだろう。もちろん、指揮者だったから、指揮活動もしており、レコードもいくつかあるが、現在HMVのカタログに載っているのは、このタンホンザーと、たくさんの指揮者によるオペラ名曲集のなかにはいっている、ふたつしかない。だから、このタンホイザーがなければ、完全に消えてしまった指揮者なのだ。それが、これだけの強力キャストで、しかもワーグナーのオペラの全曲を録音するというのは、非常に不自然だと誰もが感じるだろう。
 そこで、福永陽一郎氏の有名な推測が生まれた。それは、本来カラヤンが振ることになっていたプロジェクトだが、何らかの理由でカラヤンが降りてしまって、ゲルデスが代わりに指揮したというものだ。このレコードのコメントには必ず付随してくる話だ。私が知る限り、多くの人は、福永氏の推測に否定的だが、私は、断然支持している。ひとつの根拠となっているのが、カラヤンは、ワーグナーのオペラの全曲録音を、タンホイザーを残して、すべて行っている。もちろん、すべて現役盤である。そういうカラヤンが、タンホイザーの録音計画をしなかったのは、いかにもありえないことである。そして、ゲルデス盤の当初の計画が、カラヤン指揮だったとすれば、この豪華キャストは頷ける一方、ゲルデスという一流とは言い難い指揮者に、これだけのキャストが用意されるというのも不自然なのである。
 ということは、途中でカラヤンが放り出したことになる。誰かが、カラヤンでは嫌だなどということはありえないのだから。では何故カラヤンが放り出したのか。私は、ふたつ理由があると考えている。
 ひとつは、バージョン問題である。オペラは、歌劇場から注文を受けて作曲する。当然、その歌劇場の歌手などの状況を考慮して作曲するので、他の歌劇場で上演するときには、適切な歌手がいないことがあり、いる歌手に合わせて、曲の入れ換えや多少の書き換えをすることが少なくない。タンホイザーの場合には、ドレスデンで初演されたが、パリで上演されるときに、フランス語のテキストにすること、バレエを挿入することが求められ、いわゆるパリ版と呼ばれるバージョンが作られた。それを更にウィーンで上演するときに、パリ版をドイツ語に直した。現在、パリ版といわれるのは、このウィーン上演時のドイツ語版である。カラヤンは、戦後オペラの拠点にしていたのは、ミラノとついでウィーンである。ウィーンは音楽監督として長く君臨し、楽壇の帝王と呼ばれた時期である。当然タンホイザーも上演したが、パリ版だった。そのライブがCDになったが、現在は廃盤で入手できず、一部(行進曲)のみyoutubeで聴くことができる程度だ。
 つまり、カラヤンはタンホンザーの録音は当然、パリ版で行う意思だったはずである。音楽の傾向も、カラヤンとしては、パリ版に向いている。ワーグナーは「トリスタンとイゾルデ」を作曲したことで、かなり音楽の質が変わったとされる。ドレスデン版は、トリスタン以前で、パリ版は以後だから、書き直した部分は、かなり雰囲気が異なる。統一性を好むか、音楽的魅力を好むからで、どちらの版を好むかが左右される。
 ベルリンはドイツであり、ドイツグラモフォンが録音するのだから、ごく当たり前のこととして、最初のドレスデン版が想定されていた。ちなみに、私の知る限り、ドイツで録音されたタンホイザーは、ほぼすべてがドレスデン版であり、パリ版はドイツ以外で録音されている。双方が当然視していたので、結局煮詰まるまで、違うバージョンを想定していたことが表面化せず、ぎりぎりのところで明らかになってしまったので、双方が譲らなかったのではないか。
 もうひとつの理由は、ビルギット・ニルソンがヴェーヌスとエリザベートの二役を歌うことに、カラヤンが難色を示したのではないかという点だ。通常は、この二人の女性は、まったく対極的な人間像を示しており、ヴェーヌスはエロスの象徴、エリザベートは清純な女性の象徴である。だから、声もメゾソプラノとソプラノで区別されている。しかし、実は、このふたつの人格は、同一の女性がもつふたつの側面であるという解釈もあり、ひとりで歌う例もある。有名な例で、現在でも発売されているゲッツ・フリードリヒ演出のバイロイト盤で、ギネス・ジョーンズが二役を歌っている。ニルソンは、もっと早い時期だったので、かなり斬新だったわけだ。
 ところが、カラヤンは、音楽的なレベルでそれを拒否したのではないだろうか。パルジファルのクンドリーは、前半と後半では、全く違う人間になっているという理由で、別の歌手に歌わせたことがあるくらいなのだ。だから、違う人物を同じ歌手に歌わせることには、我慢がならないと感じたとしても、おかしくない。
 そういうことで、カラヤンによる録音計画が、カラヤンの投げ出しによって頓挫し、カラヤン自身が、自分の助手みたいな人間であるゲルデスに、「お前が指揮しろ」といって了承させ、レコード会社にもそれを認めさせた。会社としては、契約した歌手たちがおり、しかも、みな超一流でやっと日程を合わせたわけなので、計画を反故にするよりは、ゲルデスの指揮でやってみよう、ということになったのではないか。でた当初から、不思議なレコードだという評判だったと記憶するが、とりあえず、歌手が強力だし、後期ワーグナーのような複雑な音楽でもないので、ゲルデスも手堅く指揮したのだろう。名盤という評価を得ている。
 これが、福永説を更に進めた、私の推理である。
 もうひとつは、カルロス・クライバーの「ボエーム」だ。クライバーが、ミラノ・スカラ座とドミンゴ(ロドルフォ)、コトルバス(ミミ)のコンビで録音計画がスタートした。実際に、現地に集合したが、ドミンゴが飛行機の都合で間に合わなかった。それでクライバーが、遅れた分、明日は早朝からスタートだと無理難題を言い出し、「そんなの無理だよ」という声があがり、そして、例のごとく録音計画を流してしまった。クライバーとしては、珍しくもないキャンセルの一例だが、やはり、超豪華なキャストが集まっていたわけだから、会社も困っただろう。クライバーは、カラヤンのように、代わりの指揮者をたてるわけもなく、放り出した。
 では、何故クライバーは、放り出したのか。これは、いつものパターンだから、小沢のいうように、「クライバーは、いつも、指揮をキャンセルする口実を探している」ということを実践しただけなのか。しかし、そこまで無責任ではないだろう。やはり、彼なりの理由があったに違いない。
 私は、やはり、キャストに不満があったのだと思う。コトルバスにドミンゴのどこに不満なのかというのが、一般的な受け取りだと思うが、なんといっても、「ボエーム」のドリームキャストは、フレーニとパバロッティである。おそらく、このコンビを越える歌手は現われないのではないだろうか。この二人は、幼なじみで気心が知れているし、この役にはぴったりである。
 このミラノの「ボエーム」は、1963年に、カラヤン指揮、フレーニのミミ、そしてフランコ・ゼッフィレルリの演出で、プレミエを迎えた、戦後ミラノスカラ座の歴史のなかでも、空前の大成功と言われた舞台であり、おそらく現在でもこの演出で上演されているし、世界の大きな歌劇場でもこの演出が使われていた。その後いろいろな指揮者が振ったが、もっとも重要な指揮者がクライバーだった。(日本に引っ越し公演にきたとき、私も実際に接することができた。)フレーニは戦後最高のミミであり、パバロッティも最高のロドルフォなのだ。このコンビは、最盛期の録音をカラヤンと共にしている。そして、クライバーもスカラ座やウィーンで、このコンビで上演している。このコンビを使った録音なら、さすがのクライバーでも仕事をしたのではないか。だが、既に、このコンビの正式録音は存在している。もちろん、ドミンゴとコトルバスも名歌手だ。実際にクライバーはこのコンビでも演奏していただろう。しかし、レコードとなると、やはり、ミミとパバロッティを意識したのではないか。
 ウィーン国立歌劇場創立150年記念ボックスのなかに、フレーニ、パバロッティ、クライバーのボエームの一場面がある。ミミが死ぬ少し前の場面だ。これを先日初めて聴いて、このような解釈に至った。抜粋のライブ録音があるということは、全曲の録音が残っているということだ。クライバーは、遺言で、自分のライブ録音をCD化しないように指示しているのだが、いいかげんに、家族はそれを解除してもいいのではないか。チェリビダッケも、家族が許可することで、多くのライブ録音が世にでたわけである。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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