スタンダードという枠づけが学校教育の劣化を促進する

 日本の生産性の劣化と、国民一人当たりの所得の相対的順位の低下が指摘されて久しい。給付金をめぐる騒動は、それを目の当たりにした。これが先進国かという混乱ぶりだった。何故このようになってしまったのだろうか。教育の責任も大きい。とにかく、学校現場で「こうしろ」という指示が増大しているが、ほとんどが、現在の学習指導要領の基本原則を失速させる効果しか期待できないものだ。私自身は、学習指導要領の内容に賛成している者ではないが、それでも、この現場での実践に対する「おせっかい」は、学習指導要領で認められる積極的要素を否定するものだ
 具体的には、どういうことか。まがりなりにも、学習指導要領では、問題解決能力とか、考える力とか、表現力などを促進させることが求められている。これらは、今後の社会のみならず、いつの時代でも必要な能力であって、文科省や教育委員会が、本気でこれらの能力を伸ばそうとしているのならば、それは大いに歓迎すべきことだ。
 ところで、これらの能力を伸ばすために、絶対に必要なことは、「自由」であり、「解放」である。「考える」ということは、決まった答えを導くことではない。そういう思考ももちろんあるが、多くの場合は、答えがない領域で、最善の道を見いだそうとして、様々な条件を考慮しつつ、自分なりの結論を生み出そうとする行為である。「表現する」というのも、どきように表現すれば、相手に正確に伝わるかを考えつつ、言葉や表象を選択していく行為だ。当然、相手によって、伝わり方は異なるし、受けての状況を考慮する必要がある。課題の解決は、いうまでもない。
 すなわち、これらの行為は、すべて、予め敷かれたルールにとらわれない精神が必要であり、そうしたルールにそった思考などは、思考に値しない。
 ところが、近年現場で急速に普及しているのは、「スタンダード」なる「枠づけ」である。日本の学校教育には、昔から、それに類したことはあり、何かをする場合の動作のルールを決めることが、普通に行われてきた。だから、特別に新しい現象ではない。ただ、ルールが細かくなっていること、対象が教師や保護者にまで拡大していることは、著しく異なっていることだし、また、メリットとして多くの教師に意識されていることに、保護者からのクレーム対応に役立つということが語られることでわかるように、クレーム対応が目的になっていることも、新しいことのようだ。
 親からのクレームに頭を悩ますというのは、理解できる。親のクレームには、合理的な理由がある場合もあるが、多くは、かなり利己的なものだ。何故自分の子どもは、リレーに出られないのか、劇の主役ではないのか、合奏で**ができないのか、実に様々なクレームがある。
 しかし、いくら理不尽でも、クレームに、「このように決まっているから」というスタンダードで対応して済ませる、というのは、理想論だと言われるかも知れないが、教育の放棄のような気がする。教育とは、なんといっても、説明することがほとんどなわけだ。説明しなくても済むように、予めわくづけておく、というのは、それでクレーム対応としては済むかも知れないが、そのことによって、何か発展があるのだろうか。
 確かに、難しい事例もある。
 ある学級担任は、熱心に学級通信を作成し、保護者に配布している。しかし、同学年のとなりの学級の担任は、それをしない。学級通信を渡されない保護者が、「何故うちのクラスには、学級通信がないのか」とクレームをつける。
 この手のクレームへの対応は、いくつかのパターンしかない。
 もっとも、多く採用されているのは、「そういうクレームがあるので、学級通信を出すのは止めなさい」という学年主任による、「禁止」措置である。私のゼミの卒業生で、このようなことを言われて腐ってしまった教師が実際にいた。彼女は、その後、他の自治体の教師に移ってしまった。
 別のやり方もある。何故、学級通信を出すのか、何故出さないのかを、それぞれの担任、あるいは学年主任が補う形で、保護者に説明して、納得させること。(学年の最初にそれを説明しておくのが望ましいだろう。)しかし、不公平感をもつ保護者を納得させることは難しい。
 学級通信は禁止して、学年通信を出すという方法をとっているところもある。しかし、学級通信と学年通信は、かなり目的や内容が異なってくるのが普通だ。学年通信は、事務的な連絡が主なものとなり、学級通信は、たいていは、学校での子どもの様子、成長を保護者に伝えることが目的である。
 つまり、スタンダードとは、クレーム対応を意図していることが多く、その多くは、制限的な内容にならざるをえない。みんなが、高いレベルの実践をすることが難しい以上、低いところに合わせることで、揃えておく。そうすれば、不公平感によるクレームに対応することができるわけだ。
 そんなことはない、という反対意見もあるかも知れない。しかし、実例をいくつかみていると、やはり、その印象が強まるだけだ。例えば、ネットで紹介されている事例は、「環境スタンダード」と称するもので、
 「教室の掲示物は、児童のクリアファイル・係班など生活の助けとなるもの・学習(習字・新聞)の3点・3カ所にする。学習関係は廊下に掲示する。のこりは教室)」
というような内容だ。これも明らかに、掲示する内容を「制限」している。掲示に関する考えは多様であるだろうし、また、クラスの雰囲気や個々の子どもの資質にも差がある。当然、掲示の内容や量、場所など、クラスの個性があってしかるべきである。
 教師のやることがあまりに多すぎるからだ、とか、新人の教師が担任をもつのは大変だから、指針となるので便利だ、とか、そういうことで、教育にとって最も大事なことを放棄することが、解決になるはずはない。
 クレームに十分対応できない若い教師に対しては、管理職が、教師のやっていることの意図をよく聞き、改善が必要なら、改善するように助言し、管理職がクレーム対応を引き受けるべきなのである。それが管理職の役割だろうと思う。そして、教師のやることがあまりに多すぎることは、明らかだから、スタンダードを決めるよりも、仕事を減らすことに、知恵を絞るべきである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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