「国宝」2度目見た

 先日「国宝」の2度目を見てきた。8月の初め頃に一度見に行って、その後小説を読み、そして今回リピーターとして見てきたわけだ。
 第一回目をみたときには、吉沢亮と横浜流星が、日本舞踊や歌舞伎のまったくの素人であるにもかかわらず、よくあそこまで訓練したなあということに感嘆したが、他方筋のつながりがよくわからないという感想だった。
 血筋か能力かというのは、ある意味永遠のテーマかも知れないが、それを軸として二人の歌舞伎役者が切磋琢磨し、ある意味憎みながら、しかし互いに尊敬しあっている、そして、最後は能力(芸)が勝ったと解釈できるような終わり方をしている点は、教育学を専門とする私には、共感できるものだった。
 だが、筋としては、いくらヤクザの世界とはいえ、多数の組のひとたちが新年会をやっているなかに、殴り込みをかけて、組長を含めた多数を殺害してしまうというのは、不自然な感じがするが、それはいいとして、父親の仇討ちをどうやってやろうとしたのかわからず、いきなり、花井半二郎のところにやってくるというのも、どういうやりとりがあったのかよくわからなかった。市駒と娘と喜久雄の3人が出てくる場面があるが、最初にみたときには、神社で祈るところと、人力車に喜久雄がのってパレードする場面のつながりがいかにも不自然に思えた。娘が「おとうちゃん」と呼びかけるのに、喜久雄が知らん顔している場面だが、直接つながっている場面だが、実際には、時間的にずいぶんずれていることが、2度目でわかった。市駒や彰子がその後どうなったのか、映画ではよくわからない。(小説ではきちんと描かれている)
 3代目半二郎をとられてしまう俊介が家をでてしまうが、いきなりかえって来る事情がわからず、いかにも唐突だった。
 等々、生涯を描いた物語だから、ずっと自然につながることは不可能に近いだろうが、初見の人にとって、この映画の筋の飛び具合についていけなかった人は多かったようだ。
 そこで、小説を読んでみたのだが、小説と映画とでは、かなり違う面があることに驚いた。一番の違いは、立花組での喜久雄の相棒というのか、適切な呼び方がわからないが、徳次彼が物語全体を通して、準主人公のような働きをして、徹底的に喜久雄に仕える。最大の場面は、喜久雄の娘綾乃がヤクブツに溺れてヤクザにとらわれてしまい、徳次が死を覚悟して救いにいった場面だろう。徳次の真剣さを感じて、綾乃を返すのだが、結局徳次が指をつめることになる。この場面を小説でよんで、映画には、徳次が最初の新年会で喜久雄と一緒に歌舞伎舞踊を演じる場面と、父親の仇討ちをしようとしている喜久雄に徳次が短刀をわたす場面しかないのだが、それ以後の徳次を一切映画ではカットしたのは、正解だったと思った。小説では、各場面で徳治が喜久雄の力になっているのだが、喜久雄と俊介の物語として構成すれば、徳治は省いても、すっきり筋が続いていくのだ。また、綾乃は、あれた生活をしていたが、やがて春江に引き取られて立ち直っていく。ところが、映画では、途中は一切なく、「国宝」と認定された式典後のインタビューにカメラ担当として現われ、自分が綾乃であることを名乗るという設定になっている。原作は、喜久雄自身が「国宝」に認定されたことを知る前の段階で終わっているので、当然ない場面だが、締めくくるをつける意味で場面を映画として創作したのだろう。
 このように、映画では小説の場面をかなり大胆に選択しているのだが、小説の構成とあらすじを知ると、映画での筋が、実はすっきりとつながっていると感じたのだ。これは不思議な感覚だった。名作の映画化は不満が残ることが多いのだが、映画「国宝」は、歌舞伎場面をたくさんとりいれることで、観客を惹きつけ、筋は主人公二人の絡みに絞ることで、小説とはかなり違う魅力を引きだしていることが実感できた。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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