昨年二期会の「蝶々夫人」を聴きにいったので、多少このオペラに関心が高まっていた。私はプッチーニは、「ボエーム」以外はあまり好きではないので、「蝶々夫人」も敬遠してきた。だから、いまだに細かいところまで理解ができていないのだが、リッカルド・シャイーが「蝶々夫人」の第一稿による公演をして、それが市販されていることを最近知り、アマゾンで購入して早速聴いてみた。
オペラ好きの人には、よく知られていることだが、今日名作とされて、頻繁に上演されているこのオペラも、初演は大失敗で、一日だけで引っ込めてしまい、2カ月後に改訂版を上演して成功をおさめたとされている。初演を指揮したのは、著名なトスカニーニで、彼の忠告で2幕構成を3幕構成に改訂して、今に至っている。
演奏はミラノのスカラ座のもので、歌手、指揮、オーケストラすべて優れている。演出もなかなかよかったが、私の興味はバージョンなので、そこに絞って書く。HMVのレビューで村井翔氏が、第一稿がもっとも優れているとずっと思っていたと書いているが、音楽よりは、劇の進行上、第一稿のほうが多少合理性があるように感じる。ただ、音楽という点では、「ボエーム」はどこをとっても魅力的な音楽だが、「蝶々夫人」はけっこう退屈な部分があるので、より長い第一稿は、まだすっと入っては来ない。唯一、何度も聴く第一幕最後の二重唱は、多少違う部分があったが、改訂版(通常演奏される)のほうが優れているように感じた。
このDVDには、指揮者のシャイーのインタビューが掲載されているのだが、そこで、「新しい音楽はあるのか」と聞かれて、シャイーが第一幕だけで1000小節分あると答えている。私には、まだその違いは、二重唱以外にはあまりわからないが、現在の三幕(あるいは第二幕第二場)は、はっきりと時間的にかなり長い。まったく新しい動きがあるわけではないのだが、一つ一つの場面が長くなっている。しかし、三幕で、比較的よく聞かれるピンカートンが、別れの気持ちを歌う場面は、あることはあるが、あの有名なメロディーは出てこない。
シャイーの説明によると、初演前に、出版社で有名なリコルディが、三幕に分けたほうがいいとアドバイスしたのだが、プッチーニ自身が、これは二幕にすべき内容で、長い二幕目はひとつの流れのなかにあるので分けられないと語ったのそうだ。しかし、結局、初演の大失敗でまわりの忠告を受け入れることになったわけだが、確かに内容的には、現在の二幕と三幕は連続しているので、分けると不自然だ。結婚3年後に、なかなか帰って来ないピンカートンを、スズキはもう帰って来ないのでは、と疑っているが、蝶々さんは信じている。領事のシャープレスとのやり取りとかヤマドリの求婚などがあるが、二幕の最後でアメリカ船の入港で帰って来たことをしり、三幕に繋がるわけだから、内容的には明らかに続いている。
インタビューで、結局、作曲者自身が三幕にして出版もしているわけだから、それが作曲者の最終的な意思なのではないかと質問されて、シャイーは、必ずしもそうではないとして、例えば、ショスタコービッチの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の例を出している。このオペラはショスタコービッチの自信作で評判もよかったが、初演から1年後、実際に聴きにきたスターリンの逆鱗に触れ、「プラウダ」(ソ連共産党の機関紙)によって批判され、その後上演されなくなってしまった。そして、大分あとになって、「カテリーナ・イズマイロヴァ」として改作されたが、現在では、オリジナル作品として上演されている。つまり、シャイーは、作曲者自身が改訂したからといって、「本意ではない」ことがありうるという例として出しているわけで、プッチーニの「蝶々夫人」も同様なのではないかというのだ。そして、初演が失敗したのは、二幕(現在の二、三幕を一緒にしたもの)があまりに長すぎたからだと、シャイーは考える。確かに、ひとつの幕が90分を越えるようなオペラは当時ほとんどなかった。パルジファルの第一幕は2時間かかるが、当時はまだバイロイト以外では上演が禁止されていたから、通常の劇場ではまったく上演されていなかった。今では、とにかくひとつの幕が長いワーグナーに、聴衆は慣れているから、この90分は特に耐えがたいほどではないから、今上演するとしたら、やはりオリジナルがいいのだ、というわけだ。
そして、音楽と劇の内容上の変更についても、シャイーは重視している。ここらになると、よく話題になる「日本人の誇り」の議論に関係してくるように思われる。前にも書いたが、「蝶々夫人」の内容そのものが、日本人にとって屈辱的であるという評価が、特に日本人にはある。だから、なんとかして、日本人の恥となるような要素を取り除こうという試みを働きかけてきた日本人音楽家がいる。それは、アメリカ軍人の現地妻である蝶々さんが、結局、子どもも取り上げられ、自殺してしまうという内容だからだ。大橋国一さんが、プッチーニ音楽祭で協力したときに、歌詞を一部変更するように提案したところ、原作を変えることはできないと拒否されてしまった。結局、作品の変更をしない限りはできないが、変更することは著作権などの関係や、そもそも芸術への冒涜になってしまう。
しかし、シャイーは初稿の意味は、残酷さにあると考えているようで、その残酷さというのは、遊び半分で現地妻と結婚し、その後アメリカで正式な結婚をして、子どもを奪いにくるというピンカートンのいいかげんさが軸になっている。ところが、改訂稿は、ピンカートンが、後悔して蝶々さんに申し訳ない感情を、美しいメロディーに歌うことによって、実は優しい人だったという印象になってしまう。すると、ピンカートンの優しさを理解できず、また結婚の実態も理解できなかった蝶々さんは、無駄に自殺してしまった印象になるのだが、初稿だと、あくまでピンカートンはいいかげんな男だったが、それを理解できなかったことはあるにせよ、結婚したという事実をあくまで重視して、子どもを渡さざるをえない以上、筋を通した蝶々さんと、いいかげんな男ピンカートンの対比、そしてそのことによって起きた悲劇という内容になり、蝶々さんの凛々しさが強調されることになるとも解釈できるわけである。もともとそういう話であると思っているので、私としては、シャイーの解釈はしっくりくる。みなさんは、蝶々さんの姿は、日本人にとって恥だと感じるだろうか。
バージョンによって、内容がかなり印象が変わってしまう例は、他にもある。オペラは、上演する歌劇場の歌手の力量などによって、それぞれに合わせて書き直すことが少なくないので、バージョン問題はつきものだが、もっと内容的に関係するのは、ベルディの「ドン・カルロ」だ。初演版が5幕で、後にイタリアで上演するときに、4幕に直した。フランスの委嘱で作曲したのだが、当初の4幕では、政治的に過激なのと、客受けしないだろうというので、前に1幕追加して、恋愛的要素を強めた。原作のシラー作では、あまり恋愛的要素はなく、宗教対立が前面に出ているのだが、カトリックの国フランスでは、反感が強く、恋愛劇的色彩を強めたわけだ。ベルディはあまり気が乗らなかったようだが、委嘱先の要求なので妥協し、本国ではそれをカットした。それでも、フェリペ2世、エリザベッタ、カルロの三角関係的色彩が強い劇になっているのだが。ただ、最初の5幕ものの一幕目も音楽的には気に入っていたようで、ベルディ自身5幕の上演も認めていたので、現在では二通りのバージョンで上演されている。ムソルグスキーの傑作「ボリス・ゴドノフ」は、最初のバージョンは男声ばかりで地味なのを、劇場の関係者が改作を勧め、その結果ポーランド女王マリアが登場し、偽王子は彼女の助けを借りて、ボリス追討の軍を起こすようになっている。音楽的には改作が断然魅力的だが、ボリスの史実はあまりよくわかっていないようなので、内容的な相違の議論はあまりみたことがない。
もうひとつ興味深いことは、楽譜の件である。とにかく、一日だけの上演で終わってしまったので、スコアやパート譜も印刷する予定になっていたが、結局、それはプッチーニ自身の申し出で中止されたようだ。ただ、ボーカル・スコアだけが印刷出版されたらしい。初演は、もちろん手書きの楽譜で演奏されたはずである。その手書きの楽譜がきちんと残ってはおらず、プッチーニ自身が所有している自筆譜には、訂正版のための書き込みが多数あり、上書きで元が消えてしまっている部分などもあったようだ。ボーカル・スコアによって、まず音楽の大雑把な進行はわかるわけで、それを元にして、その訂正だらけの自筆譜の初稿の形態を手さぐりしていったということだ。現在では、科学技術の進歩で、重なっているインクの跡を、それぞれの段階の書き込みごとに区分けして読み取ることができるようになっているのだそうだ。そういう技術を駆使して、初稿の復元したという。完全に初稿通りであるかは、100%確実というわけにはいかないのだろうが。