NEWSポストセブン2020.3.29に「春名風花、ネットでの誹謗中傷被害との10年戦争を語る」という記事が出ている。芸能界にはまったく疎いので、春名風花というタレントを知らなかったが、子どものころから、ネットで論陣を張っていたという存在だが、誹謗中傷を受けて、それとの戦いの10年を紹介した記事である。(元記事は女性セブン2020.4.9号)
私自身、パソコン通信時代にこの問題と格闘した経験があるが、まだパソコン通信の時代には、誹謗中傷の発言があっても、拡散の度合いが限られていた。しかし、インターネットの時代になって、拡散の度合いが比較しようがないほどに拡大している。しかも、ツイッターやフェイスブックでは、拡散させる手段が整備すらされているから、まったく無自覚、あるいは歪んだ正義感でどんどん拡散させていく人がいる。手動で行わなくても、ソフトに拡散させることもできる。だから、一旦誹謗中傷されたときの被害は、計り知れないほどである。春名氏は、弁護士に依頼して、書き込みをした人物、拡散させた人物を特定するための訴訟を起こし、現在も戦い続けている。ぜひ戦いに勝利してほしいものだ。残念なことに、警察の非協力的な態度なども、戦いを阻害している部分がある。 “榛名風か ネットでの誹謗中傷との戦い ネットは匿名空間ではない” の続きを読む
投稿者: wakei
『教育』2020.4を読む 「学びは遊び、遊びは学び」
『教育』4月号の第一特集は「学びは遊び、遊びは学び」となっている。かなりたくさんの文章が掲載されており、ひとつひとつ紹介・検討するよりは、触発されて考えたことを書いてみたい。
「学び」と「遊び」の関係は、教育学の多くが、相互不可分のものと考えてきた。宗教家の教育論とか、武士の教育論などという領域では、峻別されていることが多いと思うが、少なくとも、教育そのものを専門的な対象とした学問では、学びと遊びはまったく別ものとは考えないのではなかろうか。しかし、だからといって、同じものではない。また、不可分だといっても、本当に、日々教師が学びと遊びは不可分のことだと思って、教育実践をしているかも疑問が残る。この『教育』の特集を考えた編集者、そして、寄稿した人が、心底「学びは遊び、遊びは学び」と考えているかも、質問してみたい気がする。特集のまえがきには、微妙に異なる表現もみられる。
「遊びの中に学びがある、学びの中に遊びがある。)
これは、イコールで結んでいるわけではなく、そもそも別物だが、相互浸透しているというようなニュアンスだろう。 “『教育』2020.4を読む 「学びは遊び、遊びは学び」” の続きを読む
フルトヴェングラー、バイロイトの第九 徳岡直樹氏の見解は?
最近、作曲家で指揮者の徳岡直樹氏が、youtubeで連続的に行っているヒストリカルレコードの分析に少々はまっている。そのCD収集と詳細な分析には、まったく恐れ入るという感じで、とにかく面白い。ただ、CDを紹介するだけではなく、触りでもかけてもらえるといいのだが、著作権の問題があるのだろうか。
そのひとつとして、フルトヴェングラーがバイロイト音楽祭の戦後復活の前夜祭として行った第九(ベートーヴェンの第九交響曲)の分析を行っている。こうしたことに興味のある人には、有名なことだが、バイロイトの第九は、人類の至宝と評価され、クラシック音楽の録音の最高峰と位置づけられている。はじめてこの録音を聴いた人は、まず例外なくショックを受けるだろう。私も高校生のときに聴いて、同様な思いをした。ただし、今では、滅多に聴かないし、第九のベスト録音とも思っていない。ショルティなどは、かなり辛辣に評価しているそうだ。
この実演が行われたのが、1951年。フルトヴェングラーが亡くなったのが、1954年。最初のレコードが死後発売され、以後第九の王者として君臨した。しかし、2007年に、ORFE D’ORから、バイエルン放送協会に保存されていた別テイクの第九が発売され、以後大論争になった。そして、いまだに結論が出ていないのだが、それに対して、徳岡氏が自身の見解を述べたのが、上記のyoutubeである。 “フルトヴェングラー、バイロイトの第九 徳岡直樹氏の見解は?” の続きを読む
改めてショック・ドクトリンを考える
ナオミ・クラインが、フリードマンに代表される新自由主義政策の、最も醜悪な側面を「ショック・ドクトリン」と名付けて批判したことは、まだ記憶に新しい。この批判によって、それまで圧倒的な力をもっていた新自由主義に対する、広範な批判意識が芽生えたのだった。
ショック・ドクトリンとは、何か大きな災害、戦争・自然災害等が起きたとき、民主主義が根付いていないと、そこに生じた大規模な被害を根拠に、新自由主義的勢力にとって都合のいいような政治体制、経済システム、地域政策などが押しつけられ、被害からの回復よりは、そうした支配層の利益になるような体制が作られることである。しかも、そうした災害がない場合には、人為的に混乱を引き起こして、同じようなことを実行してしまう。自然災害では、ハリケーン・カタリーナやハイチ、スマトラの大地震、そして、人為的な混乱としては、チリのアジェンデ政権転覆などが有名だが、ナオミ・クラインの著書には、他にも様々な事例が分析されている。民主主義的な国民の意識が根付いているところでは、そうした策謀は程度の差はあれ、押さえられるのだが、日本では、阪神淡路大震災や東日本大震災のときに、攻防があったが、部分的には、ショック・ドクトリン的な政策が実行されたといえる。 “改めてショック・ドクトリンを考える” の続きを読む
大学の移転と地元の支援
学校というのは、地域の重要な施設であると同時に、迷惑施設ととらえられる場合もある。学校は様々な面で地域に貢献しているから、そうした恩恵を感じている人にとっては、なくてはならないものだろうが、特に高齢者になって、学校とは関係なくなった人にとって、子どもや学生が地域で粗暴な振る舞いをしたり、あるいは、小中学校などは校内放送が外にも聞こえてうるさい場合がある。吹奏楽が熱心に練習している場合には、特に騒音と受け取られることも少なくない。
私の大学も、決して地域住民のモラルに比較して、問題があるとも思えないのだが、地域住民から、クレームが来たりする。しかし、
朝日新聞2020.3.25に、「東洋大が群馬・板倉から移転 多額の支援した地元は反発」という記事がでている。
東洋大学は、東京が中心だが、埼玉にもキャンパスがあり、群馬のキャンパスが、都内や埼玉に移転するという記事だ。群馬板倉キャンパスは、記事によると1997年4月開設という。 “大学の移転と地元の支援” の続きを読む
学校の再開
今日、3月24日、学校の再開に関する文科省のガイドラインが発表された。大学は、多くが新型コロナウィルスの感染が深刻になったころには、事実上の春休みにはいったところが多いと思うので、小中高のような突然の休校措置の影響は、さほどではなかったはずである。だから、休校措置になっているわけではないが、しかし、4月になれば、新学年度が始まる。近年の大学の日程は極めてきつきつなので、4月の最初からオリエンテーションなどが始まるわけである。私自身は、この3月で定年退職なので、まったく関係ないのだが、やはり、気になる。
大学用の指針は、最初に、感染しやすい3つの条件、1換気の悪い密閉空間、2多くの人が近距離で集まっている、3近距離での会話等がないように配慮することが示されている。ところが、学校という場所は、この3つともが揃っている。このひとつですら、かなり難しいと思われる。それは大学でも同様だろう。大学で授業を開始すれば、この3つの条件はすべてが揃ってしまうことになるだろう。しかし、単位の認定などの問題があるから、いつもでも大学を再開しないわけにはいかない。 “学校の再開” の続きを読む
読書ノート『カラヤンとフルトヴェングラー』中川右介
『フルトヴェングラー』の続きになる。
脇圭平氏と芦津丈夫氏による『フルトヴェングラー』が、フルトヴェングラーの非政治性を絶対視していたのと違って、本書『カラヤンとフルトヴェングラー』は、フルトヴェングラーを徹底的に政治的に振る舞った人物として描いている。
ベルリンフィルの常任指揮者に若くしてなったときの政治力の発揮、そして、カラヤンに対する徹底的な排除活動が、この本の主題である。音楽的な分析は、ほとんどなく、ふたりの闘争史のようなものになっている。私は、フルトヴェングラーのカラヤン排撃は、戦後になってからのものだと考えていたのだが、本書を読むと、戦前のときから既に始まっていたのだとする。資料的に確認している(ただし日本語文献のみ)から、それは事実なのだろう。つまり、戦後のカラヤン排撃は、戦前の継続に過ぎないということのようだ。しかし、それが本当であるとすると、フルトヴェングラーの政治性は、やなりかなりピントがずれていて、まわりに振り回され、利用されたということにしかならない。 “読書ノート『カラヤンとフルトヴェングラー』中川右介” の続きを読む
赤木俊夫氏の遺書を読んで
週刊文春3月26日号に掲載された赤木俊夫氏の遺書を読んだ。売り切れていたので、アマゾンのKindle版を購入したが、既に中古本が1000円の値段がついていたのにはびっくりした。電子書籍は売り切れることがないから、諦めている人は、ぜひ電子版で読んでほしいと思う。
「妻は佐川元理財局長と国を提訴へ 森友自殺財務省職員遺書全文公開」と題する記事は、森友問題を正確に報道しようとしてNHK上層部と衝突して辞職した大阪日日新聞記者の相澤冬樹氏によるものだ。週刊文春のホームページで、2018年12月に書いた記事も読むことができる。このふたつの記事と赤木氏の遺書を読むと、本当にこの内閣、そして安倍晋三という人物の酷さがわかる。
ことの起りは、教育勅語を信奉する籠池氏が、日本会議の同志である安倍晋三を尊敬し、幼稚園経営者だったところ、小学校も設立したいと考えて、安倍氏の後ろ楯を得たいと思ったことにある。 “赤木俊夫氏の遺書を読んで” の続きを読む
経済対策に納得できないものが多い
私は、経済が専門ではないし、あまり経済情勢に関する記事を熱心に読む方ではないので、あくまで素人の感覚に過ぎないのだが、新型コロナウィルスによる経済的打撃をどう打開するのか、という議論には、どうもピンとこないものが多い。
まず消費税の引き下げ、あるいは撤廃などの消費税関連、また、仕事を休んだことに対する給与補償、そして、消費を拡大するための国民への給付金などがでている。どれも、消費がすっかり冷え込んでしまっているので、なんとか消費を増大させることが意図されている。
ところで、現在起きている経済の停滞現象は、お金が足りないことになって、消費が低迷しているわけではなく、何よりも、新型コロナウィルスの感染を防ぐために、催し物の中止、人の移動が事実上制限されるために、観光にかかわる交通機関(飛行機)などの利用が極度に減少、部品工場が国際的レベルで停止しているので、サプライチェーンが寸断されての生産困難、学校の休校で親が仕事を休まざるをえない、等々によって起きている。端的にいえば、新型コロナウィルスの感染がおさまって、あるいはおさまらなくても、拡大を防ぐ有効な薬、あるいは社会システムが見いだされ、止まっているサービス業や工場生産が再開されなければ、復興はできないのである。 “経済対策に納得できないものが多い” の続きを読む
読書ノート『フルトヴェングラー』脇圭平・芦津丈夫
表題の『フルトヴェングラー』(岩波新書)を読んだが、本稿は、その紹介とか音楽論的な批評ではない。チェリビダッケについて何度か書いたので、どうしてもフルトヴェングラーについて触れざるをえなくなった。チェリビダッケは、フルトヴェングラーがナチ協力の嫌疑で裁判にかけられて、演奏を禁止されていた時期に、代役としてベルリンフィルを指揮していた。フルトヴェングラーが復帰してからも、フルトヴェングラーが死ぬ直前まで、一緒にベルリンフィルの指揮者であったが、フルトヴェングラーが終身常任指揮者になったとき、チェリビダッケも同時に指揮者になることを望んだようだ。が、オケとチェリビダッケの関係が決裂し、チェリビダッケが去ったことによって、その後ただ一度の例外を除いて、ベルリンフィルとチェリビダッケは関係をもつことはなかった。ただ、フルトヴェングラーとの関係は、その決裂後直ぐにフルトヴェングラーが死んだために、壊れることはなかったようだ。チェリビダッケは終生フルトヴェングラーを尊敬し続けたと思われる。 “読書ノート『フルトヴェングラー』脇圭平・芦津丈夫” の続きを読む