国民の教育権論の再建2 堀尾論の検討1

 「教育の私事性」論の崩壊について書いてきたが、本家である堀尾輝久氏の論で、見ておこう。 
 簡単に私の問題意識を整理しておくと、国民の教育権論が破綻したのは、「私事性の委託として、教師の専門性が位置づけられる」というが、「委託」を抽象的にしか位置づけなかったこと、そして、実際に文科省から「委託」の具体的な提起(学校選択)されたとき、反対したことによって、論理としても「委託論」を棄ててしまい、私事性論が成立しなくなった。従って、国民の教育権論を再構成するためには、「委託」を具体的な制度構想をともなった論理を構築する必要があるということである。
 今回は、堀尾氏の論を直接検討することで、氏の私事性論の弱点を示したい。
 対象としたのは、『人権としての教育』(岩波書店)の主に第一章で、「国民の学習権」という題がついている。本の初出は1991年だが、この論文は1986年7月で、国民教育研究所編『国民教育』68号に掲載されたものである。

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立民の敗北要因は、政権奪取の意志がなかったことだ

 事前には、与野党逆転には至らなくても、自民党はかなりの議席数を減らし、単独過半数も取れない可能性があり、立憲民主党は小選挙区で勝利して躍進するなどというムードが漂っていた。自民党の内部資料などを使って、一月万冊などは、小選挙区であぶない自民党の候補者を大々的に揶揄するような発言を毎日していた。もっとも、意外と朝日新聞は自民党の健闘と立憲民主党の伸び悩みという指摘をしていたのだが。朝日新聞の元記者である佐藤章氏は、一月万冊で、この朝日の調査にクレームをつけ、国民が望んでいることと真逆のことを書いていてけしからん、ということをいっていたが、国民が望んでいることと、選挙情勢の調査はまったく別物であるのに、そこを混同して怒っていたのが、不思議な感じがした。
 とにかく、多くの大手メディアが自民の苦戦と立民の躍進を予想していたのは事実だ。しかし、事実は全く逆だった。自民は確かに減らしたが、安定多数を確保し、連立の公明党も延ばし、そして、自民の減少以上に維新が伸びたことは、事実上与党は躍進したというべきだ。更に、議席を減らした枝野立民党首と志位共産党委員長は、ともに、野党共闘で自民との対決可能な状況を作り出したのがよかった、と敗北を認めない姿勢をとったことが、おそらく更に批判を呼ぶに違いない。
 
 さて、何故野党、特に立憲民主党は議席を減らすほどの敗北を喫したのか。事前は大躍進するはずだったのに。
 端的にいって、私は、立憲民主党に政権奪取の「意志」がなかった、野党でいいという姿勢だったということだと思っている。

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小室圭氏とゆとり世代

 今ゼミ卒業生とのやり取りで、「世代」による感覚の違い、世代論的なやり取りをしているのだが、そういえは、小室圭氏は、「ゆとり世代」だなあと思い至った。ゆとり世代は、世間的には厳しい見方をされてきた、戦後の世代としては、少数派に属する。私は団塊の世代なので、常に競争に晒されてきた世代だ。そして、その後も若者の受験競争は厳しくなっていったが、ゆとり世代は、そうした競争が緩やかになった時代だ。実際にそうだったかは別として、たしかに、学校での学習量は減らされ、総合的学習などという、比較的自由研究的な内容が入ってきた。もっとも、競争が緩くなったというのは、学習指導要領の精選のためというよりは、少子化が進んだことが主な原因であり、そういう意味では、ゆとり政策が終焉し、全国学力テストが復活し、PISA(国際学力競争)、全国学テ、自治体の学力テストという、テスト漬けにされている現在のほうが、入試自体は緩くなっている。 “小室圭氏とゆとり世代” の続きを読む

小室氏不合格があたえる悪影響

 これほど話題を提供してくれる存在は、メディアにとっては、本当にありがたい存在だろう。しかし、国民にとっては、極めて迷惑な存在だ。
 小室圭氏のニューヨーク州弁護士試験の結果発表があり、合格者名簿に小室氏の名前が掲載されていなかったことで、おそらく不合格になっているのだろうと推測されている。もっとも、発表されている氏名は、合格者数より6名少ないとされているので、そのなかに含まれている可能性もあるという憶測もあるが、それはないだろうという意見が強いようだ。
 様々な議論がネット上に溢れているが、
1 6名に含まれていて、実は合格している
2 今後日本からの働きかけで、合格者枠にはいっていく
3 不合格である
4 そもそも受験していない。
 この4つの場合が想定されているが、1と2の可能性は低く、3か4だろうと、私は推測している。 “小室氏不合格があたえる悪影響” の続きを読む

皇室は令和で終わるのか

 小室圭・真子両氏の結婚は、二人の問題より、天皇制に与える影響が大きいと言われていたし、実際そう主張する人も多くなりつつある。テレビなどの大手メディアの「掌返し」には驚いたし、言論統制のような動きに警戒する必要があるが、皇室そのものの存在意義を疑う国民が増えた。そして、もともと無関心層も多い。皇室に無条件の敬愛の念をいだいている国民など、高齢者の一部といえるかも知れない。私のように、元々そんな感情のない人間も、高齢者でもいる。
 代替わりから、ふたりの結婚に至る流れのなかで、確実に国民に意識されたことがある。それは、皇室には、莫大な税金が投入されており、それが国民の福祉のためには、あまり役になっていないということだ。三組の家族の引っ越しで、どれだけ多額の税金が費やされただろうか。 “皇室は令和で終わるのか” の続きを読む

国民の教育権論の再建1 何故国民の教育権論は喪失したのか

 『教育』の私事性論文の批判を書いていて、そろそろ、本格的な論文を書くべきではないかという感覚になってきた。私にとっては、やはり教育権に関する論理をしっかり構成することを、第一の課題にしている。国民の教育権論が事実上崩壊し、それに代わる教育権論が登場していない以上、国民の教育権論の再建が必要である。
 そのために、これから、いくつかメモ風の文章をここに書いていくことにする。
 『教育』の論文批判にも書いたように、国民の教育権論が崩壊したのは、私事性理論が、重要な「委託」の部分を構成しなかったからである。しかし、いくつかの文献を読み直して、妙なことに気がついた。 “国民の教育権論の再建1 何故国民の教育権論は喪失したのか” の続きを読む

殺伐さを感じさせた小室夫妻の会見

小室夫妻会見 殺伐としたものを感じたひとは多いだろう

 歴史に残る記者会見となったといえる。皇族の結婚という、国民の祝福が極まるようなことであるのに、なんとまあ、殺伐とした空気が支配していたことだろう。こんな会見ならしないほうがよかったという見解が、多数だされているが、同感だ。個々の内容に詳しく触れる必要はないだろうが、今後の天皇制のあり方とも関連して、いくつか驚くことが語られたので、それについては、触れざるをえない。

 なんといっても、驚いたことは、小室圭氏の母親とその婚約者のあいだの金銭トラブルに関して、また圭氏の留学について、真子氏が主動し、真子氏の意図に反した対応をとったことはないこと、そして、先のこととして考えていた圭氏の留学を、あの時期に実行して、海外に拠点をつくってほしいと願ったのも真子氏であったということが、本人から語られたことだろう。 “殺伐さを感じさせた小室夫妻の会見” の続きを読む

『教育』2021年11月号を読む 教育の私事性論は、どこに弱点があったのか

 『教育』2021年11月号の特別企画として、「今に生きる戦後教育学」と題する二本の論文が掲載されている。
 大日方真史「なせいま私事の組織化論か」
 福島賢二「私事の組織化論を教育の公共性論として発展させる」
である。前者が問題提起をして、後者がその検討をするという構成になっている。題からわかるように、国民の教育権論の中心的概念のひとつであった「私事性」に関する議論を、今日的に発展させることを意図している。しかし、大日方氏が書いているように、「1980年代以降、国民の教育権論は歴史的使命を終えたという評価もある」から、「今に生きる」と認識できるのかどうかも、議論の対象になるはずである。実際に、私は、国民の教育権論とこの私事性論は、議論としては死んだ、より正確にいうと「自爆した」と考えている。従って、そのことを認識しない二人の議論は、今後国民の教育権論を再生して活かすにしても、大きな壁にぶつかるといわざるをえない。 “『教育』2021年11月号を読む 教育の私事性論は、どこに弱点があったのか” の続きを読む

小室氏結婚へのネット批判は「誹謗中傷」「一億総いじめっ子」か?

 別の原稿を書いていたのだが、急遽変更することにした。

 このところ、メディアの小室・真子結婚問題に関する論調が、まったく変わってしまった。毎日新聞を読んでいると、ネット上での誹謗中傷を非難する記事が目立つ。「一億総いじめっ子か 真子さま結婚へ中傷 スマイリーキクチさん」という記事は、誹謗中傷が絶えない、ただただ悲しいと語っている。

 しかし、どうもおかしくないか。

 私自身は、ここで何度も書いているが、二人の結婚は、早々としてニューヨークにいけばいいと思っているし、一時金を辞退しなくてもよいと考えている。しかし、祝福するかと問われれば、しないと回答するし、もし、娘や知人が小室氏と結婚したいといったら、全力をあげて阻止するだろうと書いた。 “小室氏結婚へのネット批判は「誹謗中傷」「一億総いじめっ子」か?” の続きを読む

日本は本当に能力主義社会か11 岩田龍子の議論から2

 前回は、日本が能力評価を基礎にしているので、教育の荒廃が生まれていくという岩田氏の論を元に考察した。
 岩田氏によれば、日本は、能力評価であるが故に競争が熾烈になっている。そして、単に個別の領域における評価ではなく、全人格的な競争になってしまう。そして、能力が明らかになったとき(大学入試)、競争は終わるという。(自分の能力はこのくらいだ。)現在は、状況に多少の変化はあったとしても、だいたいにおいて、岩田氏の指摘は妥当であると思われる。
 大学入試ですべての競争が終わるわけではなく、これは第一段階であり、第二段階として、社会的威信の高い集団への加入競争があり、そして、そこに加入できると、第三段階として、そこでの昇進競争がある。しかし、それらすべてにおいて、特定領域でき「実力」が判定基準になるのではなく、潜在的可能性を示す「能力」評価によって行われる。そして、それ故に、日本的な様々な特質が現れるという。
・全人格的な競争があるが故に、競争への忌避感も強い。仕事の負担が違っても、給与は同じなど。
・職場は、特定の仕事をする人々の集まりではなく、人間協働集団であり、同僚が欠席したら、他の人が補う。確かに、私がオランダで生活していたときには、役所や銀行にいったときに、「今日は担当が休みなので、応じられない」と言われたことが何度もあった。日本なら、当然他の従業員が代わりにその仕事をするだろう。 “日本は本当に能力主義社会か11 岩田龍子の議論から2” の続きを読む