「教育の私事性」論の崩壊について書いてきたが、本家である堀尾輝久氏の論で、見ておこう。
簡単に私の問題意識を整理しておくと、国民の教育権論が破綻したのは、「私事性の委託として、教師の専門性が位置づけられる」というが、「委託」を抽象的にしか位置づけなかったこと、そして、実際に文科省から「委託」の具体的な提起(学校選択)されたとき、反対したことによって、論理としても「委託論」を棄ててしまい、私事性論が成立しなくなった。従って、国民の教育権論を再構成するためには、「委託」を具体的な制度構想をともなった論理を構築する必要があるということである。
今回は、堀尾氏の論を直接検討することで、氏の私事性論の弱点を示したい。
対象としたのは、『人権としての教育』(岩波書店)の主に第一章で、「国民の学習権」という題がついている。本の初出は1991年だが、この論文は1986年7月で、国民教育研究所編『国民教育』68号に掲載されたものである。
この論文は、国家教育権論も、選挙による国民からの信託という論理をとりいれているので、「構造」の違いを示すことが重要であるとの目的で書かれている。つまり、「家庭の教育(私事性)」→「委託・信託」→「 」という構造は同じだが、国民の教育権論では、最後が「教師の専門性・自由」であるのに対して、国家教育権論では、「国家の関与・責任」となる。そこが最大の違いだが、国家教育権論では、委託=選挙という制度が媒介されているが、国民の教育権論では、委託は抽象的な概念でとどまっており、具体的な制度として提示されない。そういう意味では、一般的な説得力は国家教育権論のほうが強いといわざるをえなかったのである。従って、教科書訴訟で、杉本判決以外、すべて国が勝訴したのは、まったく理由がないことではないのである。
しかし、国家教育権論が、教師の専門性や自由を極めて制限していることは、教育学的にみて正しくない。教師の専門性や自由を尊重してこそ、教育の効果は向上するからだ。従って、結論としては、国民の教育権論が正しいと、私自身は、現在でも確信している。しかし、その論理構造には、やはり弱点がある。
堀尾氏も、国家教育権論が、信託論を提示して、単純に特別権力関係論などを振りかざすのではなく、議会制民主主義の論理を提示していることに対して、新たな権利構造を示している。国民や子どもたちが、真に教育権を充足できるためには、以下のことが不可欠だとまず切り出している。
・国民と子どもの学習権の視点の有無、それを誰が保障するか
・生涯にわたる学習権、知的探求の自由・真実を知る権利を軸とする教育・文化への権利
・広く知的・文化的領域にかかわる人権の確立
・国民が政治の主人であり、労働の主人であるとする思想
こうした要素を含みつつ、人権を発展的、構造的に把握することが重要だという。(p4) そして、学習なしに人間的ではありえないことを前提に、市民・住民、労働者、子ども・青年の学習権を確認し、更に報道、学問、教育の自由を、国民の教育権と結合させる視点として、国民の学習権を構造化する。
次に、委託・信託論とかかわる教育の自由について次のように書いている。
「教育の自由は、歴史的にみれば、教育に対する公権力の統制からの自由、教育の自律性(権力からの独立性、中立性)の観念を発展させるのに役立った。それは、思想・信条の自由と結びつき、他方で、親が子どもの教育を選ぶ自由(親権論的視点)と結びついて、法制史的には、私立学校設立の自由と解された。(略)しかし、「子どもの権利」が認められ、子どもこそが教育の主人公であり、子どもの発達段階にふさわしい教育を保障する責任を親と社会が負うという観念の成立とともに、「教育の自由」は、「教育への権利」と一体のものとして把握されるようになる。」(p31-32)
ここの趣旨は、「教育の自由」が「教育への権利」と一体のものとなるということだが、では、教育の自由という概念は消えていくのだろうか。そこが、実ははっきりしない。というのは、「教育の自由」は、子どもにとってふさわしい教育を選ぶ自由、教師の教育実践の自由の保障だが、「教育への権利」は、ジャン・ピアジェが世界人権宣言26条解説でいうように、「個人が自分の自由に行使できる可能性に応じて正常に発達する権利であり、社会にとっては、これらの可能性を・・現実化する義務」であるという。端的にいうと、「全面発達を保障すること」であり、そして、「教育を選ぶ自由」を前提とし、それを超えた思想だといっている。(p33) 私には、「前提として超える」というのは、いかなる意味なのか、残念ながら理解しにくい。しかし、「教育への権利」が充足すれば、「教育の自由」は、とくにいわなくても満たされているということであるといいたいようだ。「教育の自由」のうち、親の選択の自由については、あまり問題にしていないからだ。
「国民の教育権の構造」という論文では、現行法制からは、親が子どもにどのような教育を受けさせるかの選択の範囲は、私立学校を選ぶ自由である。しかし、学区制も学校の統廃合も、教育を選ぶ権利からとらえなおす必要がある。どの学区を選んでも大差ないという前提があるから成立しているが、その前提が崩れれば、選ぶ権利をあらためて主張する必要もでてくる。今は、その権利を「留保」しているのだ。」(p136)と書いており、更に、「義務教育観念の再検討」(1983年『季刊教育法』初出)では、「学校選択の自由について」述べるなかで、「学区制は、学校選択を無意味にするほど、それぞれの学校が、ゆたかな条件の下で充実した教育を行っているというフィクションを前提」にしているが、「私たちは、なお現実をフィクションに近づける努力を続けなければならない。」(p199)と書いている。
つまり、堀尾氏は、就学する学校を指定する通学区制は、すべての学校でも大差ないという「前提」があるから成立するが、成立しなければ、学校選択をする権利があると主張しながら、それを「留保」しているだけなのだという。しかし、何故留保する必要があるのか。「前提」など崩れている、あるいは元々存在していないことは、明らかではないだろうか。もし、その前提が成立していれば、いじめへの対応を学校がしてくれないために、自殺に追い込まれる子どもがいるはずがない。
堀尾氏は、そんな前提が成立するのは、フィクションであることを認めているのに、フィクションに過ぎないから前提は成立しておらず、留保している学校選択を主張するのではなく、フィクションに近づける努力を続けるという。
しかし、これが、「留保」で済んでいたのは、まだこの時期には、文科省から、学校選択の推奨政策がでていないからだった。実際に、90年代になって学校選択を実施する自治体が表れたとき、堀尾氏は大反対をしたわけだが、それは「留保」すら棄ててしまったことを意味した。その後付けは、次回にしたい。