責任をとること 総選挙から考える

 総選挙が終り、結果は自民党・公明党、そして維新の勝利、立憲民主党、共産党の敗北というところが、注目されている。れいわがゼロから3とったことも注目されるが、「責任論」が話題になっている。自民党は勝利したとされるが、自ら小選挙区で敗北した(比例復活したが)甘利自民党幹事長と、敗北した枝野立憲民主党代表が辞任し、敗北した共産党の志井委員長は、政策は正しかったとして辞任する意志がないことを表明している。責任のとり方として、大きな相違があることが示されたわけだ。私は、結果責任をとらされるような地位についたことがないので、裏事情を想定することも難しいが、しかし、それだけ、公開された情報だけで、冷静に見ることができるかも知れない。
 
 戦後の日本で、最大の「責任」問題として、長く論争されただけではなく、実際の政治や社会に大きな影響を与えたのは、「戦争責任」だろう。これも、極めて特異な処理がされた。

・天皇の戦争責任は、公的には問われることがないままだった。しかし、言論界では長く議論された。
・戦争を引き起こした政府の要人の何人かは、連合国が設定した東京裁判で裁かれたが、日本の司法によって裁かれることはなかった。戦犯容疑者でありながら、戦後の政界に復帰して重職を歴任した人物も少なくなかった。
・戦地での日本兵が犯したとされる罪は、B級C級戦犯として、日本も含めアジア各地の法定で裁かれ、多くの兵士が処刑された。
・戦争を遂行した上級軍人や官僚の多くは、公職追放になった者もいたが、裁判で裁かれることはなく、その後復帰した者も多い。
 こうしたことが、様々な議論を呼んでいることは周知のことだが、ここでは論じない。
 上記のような戦争を引き起こしたひとたちの「戦争責任」については、散々議論されているが、戦争に反対した勢力の責任問題が議論されたことは、ほとんどない。その例外として、丸山真男の日本共産党への批判があった。この批判は、今回の責任のとり方の論議に重なってくるので、簡単に触れておこう。
 丸山は、1956年に、「戦争責任論の盲点」という短い論文を書いて、当時の戦争責任に関する議論に疑問を呈した。その後半で、天皇と日本共産党の戦争責任について論じている。
 天皇に対しては、実際上の権限があり、戦争に実質的な影響力を行使した以上、責任があることは明白であるとする。
 そして、大きな話題を呼んだのが、日本共産党の戦争責任を指摘したことだった。共産党は、戦時中に明確に戦争反対を唱えた例外的な政治勢力であり、徹底的な弾圧にあったことは、周知のことだが、ほとんどのメンバーは逮捕された。そして、主張を変えてしまった者(転向)と、あくまでも変えなかった者に分かれ、戦後まで生き残った人々は、それぞれの立場において、戦後政治の世界で大きな影響力をもったことは事実である。そして、あくまで非転向を貫いた党員が再建した日本共産党の、「戦争責任」が議論になることは、ほとんどなかった。それを丸山は指摘したのである。
 丸山は、彼らの勇気と節操は認めるが、「前衛政党としての、あるいはその指導者としての政治的責任」は別だとする。そして、政治的次元で追求されるべきことが、「奮戦力闘ぶり」に解消されていることに疑問を呈する。つまり、ファシズムとの闘いに負けた以上、負けた責任があるのではないかという主張だ。敵の攻撃や、味方の裏切りなどがあったという点も、当然起こりうることとして対策をとる必要があり、そうしたことが負けのいいわけにはならないということだろう。それを「過酷な要求というなら、前衛党」などというなというわけだ。「シンデモラッパヲハナシマセンデシタ」式のいいわけではなく、科学的検討をして、公表することが必要だと結んでいる。
 
 当時と40年後に、共産党は丸山氏による批判に対して、かなりの反批判を行ったが、ネットで読める短いものは読めたが、雑誌等は現在ではアマゾンの古本でも入手できないので、現時点では参照できていない。しかし、当時の宮本顕治の挨拶を読むと、
・世界史を見れば、反ファシズムが勝利したので、丸山には世界史的視点が欠けている
・弾圧にもかかわらず、徹底的に闘い抜いて今日がある
という主張で、それ以外の党の文献では、丸山が共産党戦犯論を説いたという前提で批判がされているようだが、丸山が主張していることは、負けたことの科学的な検証を求めているだけで、戦犯といっているわけではない。
 
 この批判と反批判のすれ違い現象は、今でも起きているよくあるパターンともいえる。一例をあげれば、日本で最初のコロナ騒ぎとなったダイヤモンド・プリンセス号を、短時間訪れた感染症専門家の岩田健太郎教授が、船内の対策の欠陥を具体的に指摘したところ、現場は頑張っているのに、そんな批判をするのは不当だ、という反論があり、けっこうネット上で支持もあった。
 つまり、現実の具体的な認識と、仕事をしているひとたちの「頑張り」とが対立するという構図である。
 ここに、責任論、特に辞任して責任をとることになると、更に議論が複雑になる。
 甘利幹事長が辞任したのは、ひとつには、小選挙区で敗れてかっこうが悪いこともあったろうが、今後の党内支持基盤が弱まって、反発が起きるとますます仕事がやりづらいから逃げたという面もあるだろう。責任をとって辞めたようには思えない。辞任を受け入れたのも、党の重鎮であるにもかかわらず、小選挙区で敗れたということは、強い反感があったからで、そうした要素を取り除く機会であったからだろう。
 枝野代表が辞任したのは、負けた以上責任をとるということだろう。これは、スポーツの世界では普通のことだが、政治の世界では、必ずしも普通とはいえない。政治は権力闘争だから、闘争に敗れて引きずり降ろされたり、昔なら殺されることで、交代が起きる。
 しかし、権力闘争といっても、現代は選挙で争うから、政策を有権者に示し、その賛否を問うことが争いである。もちろん、その他の要素もたくさんあるが。すると、政策そのものが、有権者の支持をえられるものだったのか、あるいは、支持をえられるものだったのだが、宣伝が不十分だったために、浸透しなかったのか、更に、何らかの妨害が入って、それを有効に退けることかできなかったのか、理由は多様だろうし、また、指導者が一人責任を負っているわけでもないと考えるべきだ。ただ、指導者は、いざというときに、責任をとる人間という意味では、不可欠の敗因の検証は、新指導部で行うのがベターなのだろう。
 そういう意味では、共産党の志位委員長が、方針は正しかったのだから責任をとる必要はないということを、結果判明後、時間が経っていない時期に述べたのは、首を傾げざるをえない。本当に方針が正しかったかどうかは、検証が必要ではないのだろうか。その場合、方針それ自体の正しさだけが問題ではない。今回の場合には、共闘のあり方、特にかなり多数の候補者を降ろしたわけだから、その影響はどうだったのか、特に比例の得票に影響がなかったのか、自民党からの立憲共産党というデマへの対応は十分だったのか、正しい方針の国民への提示の仕方は、適切だったのか、等々様々な検証課題があるように思われる。そうした検討には、かなりの時間を要するはずである。そういう検討をしっかりやって、方針に不十分な点があったと総括された場合には、責任をとって辞任するが、方針に間違いはなかったが、これこれ然々の理由で敗れたから、今後もこの方針と体勢を継続して活動していきたい、というのであれば、国民はより納得するのではないか。選挙で争うということは、国民の支持の獲得を競うことである。従って、選挙結果の総括も、有権者に納得できるように提示されなければ、信頼をえることは難しいのではないだろうか。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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