国民の教育権論の再建2 堀尾論の検討2 自由権と社会権

 国民の教育権論の再検討として、今回は、自由権と社会権の関係、そして、学習権を認めることは、具体的にどのようになるのかという点を考察する。
 
 教育権を論じるときに、教育の自由や教育を受ける権利(就学権)を並列して論じているが、しかし、「教育の自由」は、当然自由権に属し、教育を受ける権利と国家による保障は社会権に属する。自由権は国家の不干渉を求める権利であり、社会権は国家の関与を求める権利である。従って、「教育の自由」と「教育を受ける権利」は、並列して成立する概念ではない。教育を受ける権利は、国家が学校を建設し、教師を養成して、子どもの教育を保障することである。
 他方、教育の自由は、その範囲は広く、最大限で考えれば、「学校設立の自由」「教育内容制定の自由」「教師の教授の自由」「親・子どもの学校選択の自由」等を含む。そして、これらを並列しているだけでは、実は、「教育の自由」は現実的な権利にはならない領域が多いのである。並列ではなく構造化が重要になる。
 例として「学校設立の自由」を考えてみよう。現在、日本も含めて、ほとんどの先進国では、私立学校を設立する自由が認められている。しかし、日本では、学校教育法に規定された一条校としての私立学校を設立するためには、極めて厳しい設立基準があり、一般の人が学校を設立することは不可能といってよい。そうすると、実態としては、学校設立の「自由」は存在しないに等しい。今、教育的理想に燃えて、その実現のために学校を作って、教育活動に邁進したいと思っても、そんなことは事実上できないのである。それは、私立学校を選ぶ権利としての学校選択の自由があるといっても、十分に多様な私立学校があるわけではない。むしろ、高校以上になると、ある部分では、公立の学校にいけないから私学にいかざるをえないという側面もある。

 もちろん、公教育という点から考えると、公立学校が基本だから、私立学校設立の自由は、特別な事例で、大きく位置を占める必要はないという考えもありうる。しかし、国民の教育権論は、私の見る限り、私立学校設立の自由と、私立学校を選択する自由をネガティブに扱っている論に接したことはない。また、実定法のなかにある規定を重要なものと考えないのは、明らかに法律論として正当とはいえない。やはり、より実現可能な自由にすることを考えるべきであろう。
 では、「学校成立の自由」を現実的なものにするにはどうしたらいいのだろうか。それには、オランダの制度が参考になる。オランダでは、憲法で、公立学校と私立学校の財政的平等が規定されている。従って、学校を設立・維持するときにかかる費用は、公立学校でも私立学校でも同じであり、また授業料負担も同じになる。義務教育学校では、私立でも公立でも完全な無償である。一般にヨーロッパの学校は、日本よりも規模や扱う教育対象が小さいので、一校にかかる費用も少ない。従って、個人でも、私立学校を設立することは、日本と比べれば、圧倒的に容易なのである。設立費用もすべて公費で保障されるわけではないが、設備等は日本と比較して小さいので、事前に準備することに大きな負担はない。
 ここで、重要なことは、オランダ憲法は更に、教育の自由を明確に規定している。つまり、学校を作ること、教育内容を決めることが自由なのである。現在では、大雑把な国家基準が小学校については決められているが、日本の学習指導要領と比較すれば、ずっと大綱的なものであり、そのなかで、個性ある教育を行うことは十分に可能である。そして、義務教育であれば、授業料を不要にするだけの財政的な援助がある。これは、自由権ではなく、明らかに、国家が関与する社会権として、教育を保障していることになる。つまり、国家が関与していも、教育の自由が守られ、教育自由がありながら、国家の財政的補助が十分にあるわけである。
 
 次に学習権について検討してみよう。
 学習権を認めるとはどういうことなのか。
 堀尾氏は、学習権を子どもから市民まで認めることが、国家教育権の立場との相違を示す本質だとしている。そして、具体的に、子どもや青年、労働者、市民の学習権が重要であることを指摘している。もちろん、そのことに異論はまったくない。しかし、そもそも人々は、権利などなくても、必要があれば学習するのではないだろうか。堀尾氏が高く評価する三島での、住民の学習運動が新たなコンビナートの建設を阻止した事例でも、住民は、学習権があるから、専門家や教師たちと学習活動を継続したわけではない。もちろん、国家機関がそうした学習活動を妨害しなかったという点では、「学習の自由」はあったといえるし、妨害があったときに、それに対抗する論理として、「学習権」が有効であることは否定しない。しかし、現在の日本の状況で、住民や労働者が行う学習を、国家機関が妨害することは、あまり想定できない。
 多くの労働者が、過重労働に苦しみ、仕事を終わったあとや、休日に学習をすることが困難であるときに、学習権などと言われても、かなり空虚に聞こえるに違いない。従って、学習が実際に可能になる条件と結びつけていないと、単なる抽象的な概念になってしまう。しかし、戸波江二のように、「学習権の観念は法的に必ずしも明確ではなく、道具概念として有用とはいえない」(戸波江二「国民教育権論の展開」講座現代教育法1p109)とは思わない。道具概念としての有効性は、補強する実質的に意味のある法令によるといえる。
 私が、市民の学習権で思い浮かべるのは、デンマークの「自由時間法」である。市民が自由時間を使って、学習活動を行うとき、様々な経費がかかる。施設を借りたり、あるいは指導者を依頼すると、施設費や謝礼を負担しなければならない。一定の条件の下に、その費用の一部を援助するのが、「自由時間法」である。デンマークは、市民が仕事以外の学習活動に参加している人の割合が、世界でもっとも高いといわれることがあるほど、市民の学習やスポーツ、芸術活動が盛んである。その典型が、民衆高等学校(ホルケ・ホイ・スコレ)であるが、実際に私も2カ月ほど入学して、学んだことがある。18歳以上であれば、誰でも入学でき、一切の試験がないかわりに、資格ができるわけでもない。純粋に学びたいから入学するという学校である。現在では、高等教育が拡充したので、ホルケ・ホイ・スコレは縮小していると言われているが、それでも、デンマークの民衆教育の重要な一角を担っている。また、そうした学校だけではなく、日本での公民館などを使った学習・文化活動が極めて盛んだが、それは、具体的に学習を支援する制度があることが大きい。だから、単に抽象的な権利としてではなく、具体的なシステムを伴うような権利にしていく必要がある。そして、そのときには、有効な概念になるだろう。
 
 もちろん、市民の学習だから、公費補助があるからといって、内容に国家が関与するわけではなく、完全に自由である。ここでも、自由権と社会権が融合している。
 では、なぜ、本来逆に向いた概念である自由権と社会権が、融合、両立できるのだろうか。それは端的にいって、「数の原理」といえる。オランダの学校成立は、地域の人口によって差があるが、生徒数の基準がある。基準以上の生徒数が在籍していれば、補助がでるが、以下になるとでない。デンマークの「自由時間法」も、数による基準がある。つまり、「数」という質を捨象した基準であるが、基準の数を上まわる学習者や生徒がいることで、国民の支持を得ていることを示している。そして、支持があることで、公費補助を認めるという論理である。数で測るために、内容を問うことをしないことによって、自由を保障しているのである。
 完全に国家関与を排除することによる「自由」の領域もあるが、「教育の自由」については、国家関与を排除するだけでは、もてる者の自由に堕してしまい、もてない者は結局教育の自由を行使して、学習することが困難になるのである。従って、自由を確保しながら、国家の補助を行う具体的な仕組みと権利論が必要なのである。 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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