今ゼミ卒業生とのやり取りで、「世代」による感覚の違い、世代論的なやり取りをしているのだが、そういえは、小室圭氏は、「ゆとり世代」だなあと思い至った。ゆとり世代は、世間的には厳しい見方をされてきた、戦後の世代としては、少数派に属する。私は団塊の世代なので、常に競争に晒されてきた世代だ。そして、その後も若者の受験競争は厳しくなっていったが、ゆとり世代は、そうした競争が緩やかになった時代だ。実際にそうだったかは別として、たしかに、学校での学習量は減らされ、総合的学習などという、比較的自由研究的な内容が入ってきた。もっとも、競争が緩くなったというのは、学習指導要領の精選のためというよりは、少子化が進んだことが主な原因であり、そういう意味では、ゆとり政策が終焉し、全国学力テストが復活し、PISA(国際学力競争)、全国学テ、自治体の学力テストという、テスト漬けにされている現在のほうが、入試自体は緩くなっている。
ゆとり世代への批判は、のんびりして、やるべきことをしっかりやらない、必要な知識が欠けていることが多い、等々だが、ゆとり世代以外は、多すぎる学習量をこなす必要があり、常に競争を意識させられてきたので、そうしたことから比較的解放されていたとみられる。だから、ゆとり世代に対しては、なんとなく厳しい目を向けたいのだろう。
しかし、私は、競争主義こそ日本の教育をダメにしていると思っているので、ゆとり世代こそ、今後の日本を背負っていける可能性を、もっとも強くもっていると考えている。ゆとり政策が実施されていたときには、不登校やいじめという、日本の教育の典型的な問題は、少なかったのである。
ここ数日は、どうしても小室ネタが大きいので、今日もその話題になってしまう。小室圭氏は、いい意味でも悪い意味でも、典型的なゆとり世代という気がする。ゆとり世代からは、あんな奴と一緒にしないでくれという苦情はあるかも知れないが。
まず、彼は、厳しい受験競争を経験したことがない。今回受験したニューヨーク州の弁護士試験が、初めての厳しい受験だったのではないか。
小学校はたしか私立で、その後カナディアン・スクールだったはず。私立の小学校は、本人が受験競争をするわけでもないだろうし、カナディアン・スクールは、定員が空いていて、授業料を払うことができれば、まず入学可能だと思われる。ICUはAO入試だったと言われている。カナディアン・スクール出身だから、ICUには通りやすかったと思われる。銀行や法律事務所への就職は、既に結婚を約束していたから、なんらかの便宜が図られたと考えるのが自然である。フォーダム大学への入学にしても、プリンセスのフィアンセという大学ホームページの言葉から察して、特別な配慮があったとみられる。
報道によると、小室氏の母親は、弁護士試験の結果について、これまで厳しい試験を受けたことがないから心配だと、漏らしていたそうだが、さすがに母親だけあって、クールに見ていたのかも知れない。
こうしたことを考えれば、激しい競争に晒されているアメリカ社会で、はじめて「試験」という経験をした者が失敗するのは、ごく当然にありそうなことなのだ。しかも、おそらく、音楽系の私立小学校、外国人学校と進んできて、フォーダム大学への入学と弁護士資格の取得とが、母親と婚約者の要請によって押されたことを考えれば、主体的に熱心に取り組むこともむずかしかったろう。マスコミは、合格を信じて疑わないようだったが、不合格を予想した人も、ネットでは多数いた。
しかし、そうして素直に母親や婚約者の意志にそって、それなりに努力をし、あるいは努力をしている風を装い、そして、おそらく、母親の強い勧めだったろうが、普通の人は思いも及ばないような、学生でありながら皇族の女性にプロポーズをして、しかも、いかなる世間の非難にもかかわらず、結婚に漕ぎ着けたというのは、個人的にみれば、実にたいしたものだといわざるをえない。その点は、率直にすごいことだと思う。
だが、やはり、弁護士資格を与えるような重要な試験は、実力がなければどうにもならない。冷静にみれば、これまでの経歴や生き方から推して、そうした実力があるとは、とうてい思えないのである。
小室圭という人は、やはり、「ゆとり世代」のひとつの典型なのかも知れない。ものごとにがつがつせず、周囲の雑音は気にせず、自己流を貫く。
しかし、自身の意図とはまったく別のところで、歴史的に重要な意味をもつことを実行した可能性がある。それは、今後やってくる可能性の高い天皇制、皇室システムの崩壊へと向かう動きの最初のボタンをおしたということだ。