前回は、日本が能力評価を基礎にしているので、教育の荒廃が生まれていくという岩田氏の論を元に考察した。
岩田氏によれば、日本は、能力評価であるが故に競争が熾烈になっている。そして、単に個別の領域における評価ではなく、全人格的な競争になってしまう。そして、能力が明らかになったとき(大学入試)、競争は終わるという。(自分の能力はこのくらいだ。)現在は、状況に多少の変化はあったとしても、だいたいにおいて、岩田氏の指摘は妥当であると思われる。
大学入試ですべての競争が終わるわけではなく、これは第一段階であり、第二段階として、社会的威信の高い集団への加入競争があり、そして、そこに加入できると、第三段階として、そこでの昇進競争がある。しかし、それらすべてにおいて、特定領域でき「実力」が判定基準になるのではなく、潜在的可能性を示す「能力」評価によって行われる。そして、それ故に、日本的な様々な特質が現れるという。
・全人格的な競争があるが故に、競争への忌避感も強い。仕事の負担が違っても、給与は同じなど。
・職場は、特定の仕事をする人々の集まりではなく、人間協働集団であり、同僚が欠席したら、他の人が補う。確かに、私がオランダで生活していたときには、役所や銀行にいったときに、「今日は担当が休みなので、応じられない」と言われたことが何度もあった。日本なら、当然他の従業員が代わりにその仕事をするだろう。
さて、このような能力による競争が、どのような問題を引き起こしているのか、そして、その解決法は何か。
岩田氏があげている大学前の教育に対する「学歴主義」の弊害は以下の点にある。
・勉学意欲の低下。
・隠れた才能を見のがす危険
・落ちこぼれを生む。
大学においても、基本的には同じようなことだが、「学歴の機能低下→教育の荒廃→学歴と学力の乖離」という現象が起きているとする。経済学者である岩田氏にとっては、不登校やいじめなどは、教育の荒廃の中心的な位置は占めていないようだ。
対処については、かなり簡略になっている。
・能力証明方法の多様化--共通一次のウェイトを柔軟にする
・大学での二年時での入れ換えを可能にする
・大学院と学部の切り離し
・大学の官民格差の是正 国立大学は不要とまで断言はしていないが、それに近い。
・大学への補助は基礎研究重視
対応は、主に大学におけるものになっているのが、多少不満を感じるが、岩田氏の大学における実践として、ゼミで学生たちの樹脂研究を主体にしたら、学生たちが意欲的に研究活動を展開するようになったという事例は、多く大学教師が経験していることだろう。だから勉学の自由な要素は、大学前の学校にも、当然適用されるべきである。
上に書かれたような岩田氏の主張は、ほとんど同意できるものである。しかし、まだ教育学者としては、もっと補充する必要がある。
私は、オランダの教育を研究してきたが、オランダの教育制度と他の国の制度はかなり異なる点があるが、最大の相違は、公立学校と私立学校が同等であることだと考えている。同等という意味は、国家の財政的位置づけが同等ということだ。つまり、私立も公立も、まったく同じ基準で国家による補助金がだされる。だから義務教育段階では、私立も公立も、授業料はとらないし、義務以降でも差がない。中等教育までは、私立学校のほうが圧倒的に多い。さすがに、大学は、国家が中心に整備してきたので、国立が多いが、財政基盤が同じであることは同様である。財政効率からみると、オランダの方式のほうが、格段によいはずである。日本では、学齢児童・生徒を満たすだけの公立学校を設立する必要があるが、私学の定員は、それにプラスされる形になる。私学も補助金がある。しかし、オランダでは、公立私立あわせて、子どもの数に対応すればよい。
日本でも、私立は公立よりも教育の多様性があるが、オランダでは、公私平等であることによって、公立も含めて多様な教育理念、内容、方法が認められている。そうした多様な形態の学校を自由に選択することができる。
このことが、入学した学校での勉学意欲を高めることは、十分に納得できるのではないだろうか。岩田氏が、大学のゼミで実践してえた結果を、小中学校で実現する上で、その学校の理念や方法を理解したうえで、選択して入学することが、義務的に割り当てられるより、学習意欲をより高めることは、ごく当然である。
つまり、多様性の許容を前提に、学習の主体性を拡大していくことは、大学だけではなく、小学校教育から必要なことだろう。
そして、もっとも大きなことは、入試についてである。
何度もこのブログで書いたように、入学試験制度そのものを廃止するのがよいと考えている。それは、かなりラディカルな変更だが、不可能ではない。何故なら、欧米の多くの国には、日本のような入学試験制度は存在しないからである。卒業資格が、基本的に上級への進学資格となっている。具体的な形態については、複数の可能性があるが、競争試験によらない進学は、可能であるし、大学に進学してからの学習意欲を高める可能性が高い。
そうすると、少数の学校に希望者が集中してしまうという反対論がでる。しかし、入試があるから、格差が生じるのであって、入試がなくなれば、格差は圧倒的に小さくなる。だから、今考えられるような集中は起きないのである。そして、コロナによって拡大したオンライン教育は、大学と所属学生を厳格に対応させる必要をなくしたと考えることができる。
大学で何を学んだかこそ、社会に出るときに検証されるほうが、社会の発展にとっては有用であり、そのためには、その大学に所属しなくても、授業を履修できる範囲を拡大して、本当に勉強したい授業をとれるようにする。北海道のA大学の学生でも、大阪のB大学の授業を履修できるようにする。事務手続、受講料などの問題はあるだろうが、既に世界中の大学で、そうしたシステムは動いているのである。成績評価も、単位認定も、そして、受講料の聴衆も、オンラインで可能になっている。日本の国内の大学制度が、それを可能にしないとしたら、それは意志の問題である。学生が勉学意欲をもつようにする上で、それは大きなインセンティブになりうるのである。
そうして、学んだ内容をもって、就職活動を行うようなシステムにしていくことは、社会の発展にとって、必要なことだと思われる。そして、こうしたシステムになれば、学生の意欲は確実に向上する。
日本の教育荒廃の最大の問題が、解決できるといえる。