ハイティンク逝去、安心して聴ける指揮者だが

 昨日グルベローバの逝去について書いたのに、またまたベルナルト・テイティンクが亡くなったという記事があった。21世紀に生き残った巨匠であるから、やはり書かざるをえない。
 率直なところ、私はハイティンクのファンでもなかったし、熱心な聴き手でもなかった。もっているCDも少ない。カラヤンやワルターの正規盤はほとんどもっているのに比較すると、無視してきたともいえるかも知れない。しかし、ハイティンクが極めて優れた指揮者であり、巨匠であったことは疑っていない。
 私に限らず、ハイティンクの熱烈なファンは、日本には少ないのではないだろうか。カラヤンは戦争を挟んでいたこととか、LPレコードが発明された時期などもあって、活発に録音活動をするようになったのは、50歳近くになってからだ。だから、レコーディング指揮者としては、30年余の活動だった。しかし、ハイティンクは35歳くらいでコンセルトヘボーの常任指揮者になってから、90歳くらいで引退するまで、活発な録音活動を継続してきた。だから、45年間ほどの時期があり、カラヤンよりもずっと長い。カラヤンの正規録音は、CDで500枚以上あるだろうから、さすがにハイティンクはそこまで多くはないとしても、負けないくらいの録音があるに違いない。
 では、なぜ、巨匠として尊敬されながら、圧倒的な人気を誇るようにはならなかったのか。
 逆にいうと、ハイティンクを勧める際の口上を考えてみるとわかる。ハイティンクの録音は、安心して勧められる、あるいは安心して聴けると、よく言われる。そう、どんな演奏も、高い水準を示していて、買って後悔することはない。しかし、たくさんのクラシック音楽を聴いている者にとって、「安心して聴ける」ことは、それほどの価値ではないともいえる。やはり、何か新しい、他には聴けない個性や強烈な印象をもたらすものを欲しているわけだ。ハイティンクには、それが乏しい気がする。
 私がもっているハイティンクの数少ないセットものであるワーグナー「ニーベルンクの指輪」から、ワルキューレの一幕を部分的に聴いてみた。りっぱな演奏なのだが、ぐいぐいと惹きつけられるものがあまりないのだ。ワーグナーの毒というが、毒がないといえるだろう。ベートーヴェンのような音楽は、もっと納得できるものだし、ベートーヴェンを聴いたという思いになるのだが、「あの部分はすごかった」という驚きが生じることが、あまりない。
 もうひとつ、誰もが納得する巨匠中の巨匠は、絶対的な名演をもっているものだと思う。フルトヴェングラーは、第九や運命、トリスタンとイゾルデ等々。カラヤンは、蝶々夫人、ボエーム、サロメ、バラの騎士などのオペラ。アバドはシモン・ボッカネグラ。バーンスタインのマーラー、ショルティの指輪。このような名演は、これから匹敵する演奏が現れる可能性が小さいし、また現れたとしても、これらの演奏の価値が低くなることはないと断言できる。
 しかし、ハイティンクには、そういう録音が、私には思いつかないのである。つまらない録音もないが、強烈な印象を与える録音もない。同世代の巨匠指揮者たちは、そういう傾向がある。小沢征爾、ズービン・メータ、バレンボイム。極めて優れた指揮者であり、名演を数々残しているが、どうも絶対的と評価される名演は、あまり見当たらないのだ。
 かといって、ハイティンクを低く評価しているのではない。個性的な演奏をめざしたわけではないが故に可能になったこともある。
 そのひとつが、ブルックナー全集とマーラー全集のふたつを、ともにレベルの高い演奏をなしえたこと。ほとんどの指揮者は、この一方は得意だが、他方は不得意なのだ。マーラーが得意だった巨匠は、ワルター、バーンスタイン、アバド、小沢。ブルックナー派は、フルトヴェングラー、カラヤン、バレンボイム。しかし、ハイティンクは、極めて若い時期に、この二人の全集を録音し、いまでも高く評価されている。作品をできるだけ、作曲者の意図にそって、自分の個性を織りまぜることなく表現するスタイルだからこそ、可能になったと思われる。
 まだハイティンク・コンプリートは出ていないが、今後発売されるのだろうか。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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