政権浮揚のための解散はありなのか?

 岸田首相が、解散する可能性があるという。しかも、その理由が、来年の総裁選で再選するためだというのだ。実は、安倍元首相も、何度か解散して、その都度勝利し、権力基盤をその勝利によって堅固なものにしてきたと言われている。安倍元首相が選挙の度に勝利したのは、野党のあまりのだらしなさと、自民党のメディア支配による巧妙な選挙戦、そして小選挙区という仕組みのためで、国民が安倍晋三という人物、そしてその政策を支持したわけではない。安倍氏は、国政選挙を利用して、自分の権力基盤を強化した。岸田首相をそれを真似したいと思っているのだろう。
 しかし、これは選挙の悪用であり、民主主義への挑戦である。選挙は、国民の支持する内容を確認するためのものであって、権力者の権力基盤のためにあるわけではない。安倍元首相が選挙に打って出たときは、多くの場合、氏への批判が強くなったときだった。そうした批判を票に結び付けることができなかった野党も、本当に情けないと思うが、やはり、政権をとっている側の、国政への矜持の問題といえる。安倍内閣が、自己のために選挙を繰りかえす度に、日本の民主主義はそれだけ弱体化した。国葬をめぐってであるが、自民党内から、安倍晋三氏がいかに日本を、自民党を堕落させたか、国賊といえる、という批判すらでたほどである。

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箱根駅伝雑感

 今年も箱根駅伝が盛り上がったようだ。私は熱心な観戦者ではないが、食事時間とかなり重なるので、そのときには家族と一緒に見ている。食事が終わっても、多少は延長しているが。
 箱根駅伝は、いろいろな意味で考えさせる側面をもっている。私は私立大学に勤めていたので、私立大学にとっての箱根駅伝を考えることがよくあった。なんといっても、箱根駅伝に出場することは、私立大学の営業にとって、非常に大きな利益をもたらす。受験シーズンが始まる時期に、2日間、合計10時間テレビで大学名が連呼されるのだ。そして、今や箱根駅伝で記録をつくったりする選手は、大学ではスターなのだろう。ある大学では、初めて箱根駅伝に出場したあと、受験生が2割ほど増加したという。だから、名前を売り込みたい大学は、かなりの特典を与えて、有力選手を集めることになる。スポーツ推薦の形だが、おそらく、スポーツ推薦で最も効果が高いのが箱根駅伝なのではないか。大学スポーツで、短期間にこれだけ集中的にテレビ中継されるものはないと思われる。

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ウィーン・フィル ニューイヤーコンサート メストこそベスト

 今年のウィーン・フィル、ニューイヤーコンサートはフランツ・ウェルザー・メストの10年ぶりの登場だった。メストは、ウィーン国立歌劇場の音楽監督を、シーズンが始まったばかりの時点で辞任するという、いささか感心しない行動にでたため、10年の間があいてしまったのだろうか。その後国立歌劇場には出ていないはずだ。しかし、不思議なのは、カラヤンもウィーンのオペラにはでないのに、ザルツブルグには出ていたのと同様、メストもザルツブルグ音楽祭でのオペラ上演の中心になっている。

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シャーロック・ホームズ こんな改変はありか「未婚の貴族」

 ジェレミー・ブレッド主演の「シャーロック・ホームズ」シリーズは、原作に忠実で、ホームズのイメージも、数あるホームズドラマの中で、最も原作に近いという評判のものだ。しかし、特に、撮影後期の作品には、原作と異なる内容をもったものがある。その代表例が「サセックスの吸血鬼」と「独身の貴族」だ。「サセックスの吸血鬼」をyoutubeでみたときに、あまりに原作と違うので、今回飛ばして、「犯人はふたり」「独身の貴族」と進んだ。ところか、「独身の貴族」は、あまりに内容が違うのに驚いてしまった。「サセックスの吸血鬼」は、原作にまったくないゲスト主人公のような人物を登場させ、そちらと村人たちの緊張関係に焦点をあてているような作りであり、原作に盛られた「吸血鬼」については、多少の変更はあるが、一応盛り込まれている。だから、原作に、まったく新しい内容を加えたものになっているが、「独身の貴族」のほうは、原作の内容を酷く歪め、キャラタクーの性質を逆転させてしまっている。そして、全体の雰囲気もまったく異なるオカルト的になっている。こういう改作はありなのか、と疑問をもたざるをえないものだ。

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新年の挨拶

 新年おめでとうございます。
 新しい年になり、退職している身としては、特に新しい職務などもないのだが、今年も、せっせとブログを書き、それに加えて、多少なりとも、創造的な仕事をしたいと考えている。
 さて、何をやろうかと。
 私は、教職にあったときに、学生に対して、10年ごとに新しいことを始めなさいと、いっていた。変化の激しい社会にあって、変化に対応していくためには、新しいことに挑戦する姿勢が必要だからだ。これまでやったことのないことを始める経験を積んでおけば、これまでとはまったく違うことをしなければならない、というような事態に直面しても、対応する気持ちになれる。

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今年の振り返り

 2022年も最期の日になった。ステイホーム生活をしている身としては、今日も明日も特別に変わったことがあるわけではないが、一応の区切りとして、今年を振り返っておきたい。 
 ニュースとしては、最大のものは、なんといってもロシアによるウクライナ侵略戦争の開始と継続だった。まだ帰趨は見えないが、今後の世界のあり方を根本的に変えてしまう可能性がある事件だ。最も好ましくない展開は、ロシアが挑発的な攻撃にでて、NATOが参戦せざるをえなくなり、第三次世界大戦となることだろう。プーチンが、ヒトラー的な妄想主義と、徹底した自己中心的人物なら、人々をそうした戦争に巻き込むことも厭わない危険性がある。
 最も好ましい展開は、プーチンや強硬派の大規模動員への反発から、市民や軍隊の反乱が起き、ロシアがいくつかの民族共和国に分裂し、その結果できる小ロシアが、ロシアの後継国家としての位置を国連で確保できず、安全保障理事会の常任理事国から消えることである。
 しかし、いずれにせよ、来年早々に決着がつく可能性は低いが、ウクライナの勝利を期待しよう。

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読書ノート『江戸雑記帳』村上元三 史実と創作

 歴史小説には、歴史の中心舞台を素材するものと、表舞台には出てこない市井のできごとを中心にするものとがある。司馬遼太郎の小説は、前者の典型で、有名な歴史的事実を扱うので、重要な筋として、自由な創作をすることはできない。しかし、後者は、むしろ創作部分が主体となる。もちろん、一方のみの作品を書き続ける作家は、おそらくほとんどなく、両方を扱っているひとがほとんどだろう。
 史実と創作をどのようにバランスさせるかについては、森鴎外の「歴史其儘と歴史離れ」で扱われて以来、様々な作家が自分の場合を扱っているが、村上元三氏のこの本は、創作への読者の意外な反応も書かれていて、興味深く読めた。

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SDカードが8400円?!

 このようなことは、あまり書きたくないのだが、非常に不愉快な思いをしたので、参考までに書いておくことにした。そして、書いてから数日、アップすることを迷っていたが、やはり、注意喚起という点で意味があると思い、アップすることにした。
 
 家族のスマホのSDカードが破損しているというメッセージが出てくる。何度か独力で修正を試みたのだが、改善されないので、店にもっていくことにした。スマホはY-mobile で契約したものだ。
 最初に経過を話して、最終的には店にあるカードを入れてほしいと説明した。このカードは自宅にあったカードで、最初はきちんと作動していたのだが、そのうち破損しているというメッセージがでるようになった。旅先の店で入れ直してもらったところしばらくは正常になったのだが、またまたおかしくなり、一切の写真が提示されない状況になったので、独力では無理だと思ったわけである。

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真に惜しまれる夭折作曲ビゼー

 年末のベートーヴェン第九が終わり、次の私の所属市民オーケストラの曲目に、ビゼーの「ローマ組曲3番」が入っている。まったく知らなかった曲で、団員もほぼ初めて知る曲だろう。CDもごく3枚程度しか出ていない。不思議なことに、3番といっても、1番と2番があるわけではないので、番号なしに「ローマ」と呼ばれることもあるようだ。何度か書き直して、長い間に変化もして、出版はビゼーの死後だったこともあり、そうした不可解なネーミングになったようだ。演奏困難なので、あまり演奏されないと、ウィキペディアに書いてあったように思うが、プロオケにも難しいほどではないが、アマチュアには、確かにやっかいな部分がある。でも、第3楽章などは、アルルの女のアダージェットを思わせる、非常に叙情的な曲だ。ビゼーがローマ大賞を得て、イタリアに留学したノルマとして、作曲したので、いかにもイタリア的な要素も随所に感じられる。

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シャーロック・ホームズ 職場の大事なものを自宅に持って帰るか

 犯罪を扱う小説で、事件が解決する場合には、どうしても不自然な要素が残ることが多い。というのは、読者を惹きつけるためには、犯罪そのものが特異で、解決が難しいことが求められる。だから、それを解決するためには、超人的な能力が必要で、ときには、あまりに不自然な偶然などを介在させたり、リアリティが損なわれることが多いのだ。そこで、骨格が同じふたつの物語を比較検討し、リアリティについて考えてみよう。
 
 ひとつは「エメラルドの宝冠」、もうひとつは「第二のしみ」である。ともに、ある重要なものを預かった人物が、職場に置いておくことに不安だったので自宅に持ちかえり、そこで盗難にあう。ホームズが、品物を取り戻すことを依頼され、無事戻るという点が共通である。しかし、その共通性にもかかわらず、印象としてはかなり異なる。

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