現在のヨーロッパでは、ポピュリズム政党が大きな力をもつようになっているが、その躍進のひとつの理由が、多文化教育に対するネガティブな感情である。移民受け入れの積極派であるドイツのメルケル首相が、以前「多文化主義は敗北した」と発言したことはよく知られている。少なくとも、多くのヨーロッパ諸国が、政策としての多文化主義教育をやめたことは間違いない。しかし、ことはそれほど簡単ではないようだ。
多文化主義は様々な定義があるが、共通項を整理すれば、ふたつの要素から成り立つ。
第一に、公用語以外の言語の尊重である。そして、第二に、マイノリティの文化の尊重である。
19世紀は、ひとつの民族がひとつの国家をつくるという「国民国家」が成立し、そこで成立した国民国家は、現在多くが先進国としての地位を保持している。しかし、ひとつの民族によって構成されている国民国家といっても、実は少数民族や、国民国家が採用した公用語とは異なる言語を用いている人たちが、ほとんどの国民国家内部に存在した。特に、そうした存在が多かったのがオーストリー帝国である。 “多文化主義は終焉したのか” の続きを読む
大作曲家の作品1
昨日は、私の所属している松戸シティフィルの演奏会だった。松戸市がオリンピックにおけるルーマニアのホスト市になっているということで、ルーマニアの代表的な作曲家であるエネスク(以前はエネスコと呼ばれていた)の作品を演奏した。そして、指揮者として、ルーマニアのオーケストラの常任指揮者を務めている尾崎晋也さんが振った。海外で活躍されている大変優れた指揮者で、やさしい雰囲気で厳しいことをどんどん指摘することで、私個人としては、普段なら諦めてしまうような難しいパッセージもなんとか弾けるようになろうと、かなり練習したつもりだ。本番も普段よりは弾けたと思う。
ルーマニア祭のような感じで、新聞(朝日、毎日)が取り上げてくれたために、オケ単独の演奏会としては、けっこう聴衆もたくさん入ったような気がする。
ブログで、自分のオケの演奏会のことは、いままで書いたことがないが、書く気になったのは、大変珍しい「ルーマニアの詩」という曲が入っていたからだ。CDでも2、3種類しかでておらず、ユーチューブにも2つくらいしかない。交響詩のジャンルにはいると思うが、2楽章で30分もかかる。珍しいというのは、この曲が作品1だということもある。つまり、まだ音楽院の学生だったころの作品らしく、エネスクが、後年苦しいときには、この作品の作曲していたころのことを思い出しながら、自分を励ましていたと、指揮者の尾崎さんが教えてくれたのだが、作品1というのは、みんな青春の思い出なのだろうか。 “大作曲家の作品1” の続きを読む
NHKスクランブル放送化を考える
N国党が当選者を出すことによって、NHKをめぐる状況が変わっていくだろう。通勤で使う駅で時々演説していたので、パンフももらったし、存在はよく知っていた。しかし、あまり賛成はできないと常々思っていたが、いよいよ現実的な課題になり、また、NHKのスクランブル放送化に関する世論調査も行われた。だいたい賛否が3割ずつで、拮抗しているらしい。政党では規制の主な政党はだいたい反対の姿勢なので、当分N国党の主張が通ることは、しばらくの間ないだろう。
スクランブル放送とは、許可した者だけが視聴できる仕組みで、NHKの受信料を支払った者だけが視聴できるということだ。スカパーがそうだ。アナログ放送では不可能だが、現在のテレビ放送はすべてデジタル化しているので、技術的に可能になっている。私はデジタル化した理由が、スクランブル化のためだと思っていたので、もっと早く問題になるのかと思っていたが、これは私の判断ミスだった。しかし、技術的に可能なことは、必ず実行しようとする者が現れるし、大きな流れで見れば、実現の方向に進んでいくものだ。 “NHKスクランブル放送化を考える” の続きを読む
水泳授業の民間委託
毎日新聞9月12日の地方版(福岡)に、「水泳授業の民間委託検討 久留米市小学校、プール老朽化などで/福岡」という記事が出ている。全46校にプールがあるが、20校が築30年以上となっていることが原因で、検討をしているということだ。既にいくつかの自治体で行われていて、調査したところ「天候に左右されずに授業ができる」「専門家の指導で学習効果があがる」というような結果がでたという。
この記事を読んで、以前私自身が経験したことを思い出した。
私の家の近くに鉄道が通ることになり、ある小学校が駅近くになるために、開発を主導しているところから移転要請があり、近くに移転することになった。その際、私の妻が教育委員会と交流があったので、その学校をどのようにするかの検討チームにはいり、私も部分的に参加した。その際議論になったひとつが、プールだった。とにかく大規模開発する地区だったので、移転先の敷地もそれほど広くなく、また、公民館との併用の複合施設となることが決まっていた。だから、プールを作るのは、けっこう無理があったのである。私たちは、オランダに家族で一年間住んでいて、娘たちが現地校に入っていたから、その経験なども踏まえ、プールは学校に作る必要はなく、近くの駅前にスポーツクラブがふたつもできることになっているので、そこと契約して、そこのインストラクターに指導してもらったらどうかと提案した。 “水泳授業の民間委託” の続きを読む
『週刊ポスト』韓国特集 嫌韓を煽っているようには思えない
小学館の『週刊ポスト』9.13号の韓国特集を読んでみた。吊り広告をみて、流石に買う気がしなかったのだが、T-Magazine に週刊ポストが入っているので、早速加入して、そこで読んだ次第。「韓国は要らない」というような刺激的な見出しがついているので、何人かの常連寄稿者が、執筆拒否を宣言したことで騒がれた。二回連続の韓国特集で、第一回が「韓国要らない」で、ふたつの記事からなる。第一は「厄介な隣人にサヨウナラ 韓国なんて要らない」という題で、日韓両国のメリット・デメリットを徹底調査するという記事になっている。
しかし、すべてが日本が得するという内容で、
・GSOMIA破棄なら半島が危機になり、ソウルが金正恩に占領される悪夢となる
・サムスンのスマホ、LGのテレビ、現代の自動車が作れなくなる
・東京オリンピックボイコットなら、日本のメダルは2桁増
・韓国人旅行客が日本で使うお金は米中の3分の1。だから、たいした損ではない
・韓流グループは、日本市場がないと食べていけない
という見出しで、説明文がつくが、確かにそうだと思うのは、オリンピックを韓国がボイコットすれば、それは日本のメダルが増えるということくらいで、他の記事は、あまりに日本を買いかぶり、韓国の力を過小評価しているように思えてならない。 “『週刊ポスト』韓国特集 嫌韓を煽っているようには思えない” の続きを読む
歌舞伎を初めて見た
今年度で大学も終わるので、大学からのプレゼントとして、歌舞伎の券を贈られた。一度くらい見ておきたいと思ってはいたが、私はオペラファンなので、まあ実際に見に行くことはないだろうとは思っていたのだが、こういう機会はぜひ利用させてもらおうと思って、昨日出かけた。場所は日比谷線の東銀座駅から直接いけるようになっているのだが、直接いけるのは、展示やお土産屋さんの並んでいるビルで、実際に歌舞伎座の劇場に入るには、外に出てから、道路に面している入り口から入る。暑くて、一斉に並んで入るので、かなり不便な仕組みだ。ロビーも狭いし、普段慣れている音楽会場とは違う。だが、この夏いったバイロイトの劇場はロビーがお世辞にも広いとはいえなかったので、似たようなものかも知れない。バイロイトは、休憩時間中は、外に(といっても庭園だが)出て,ビールやワインを飲む。歌舞伎座は、多くの人がお弁当を買っていて、座席で食べていた。休憩時間中は飲食オーケーなのだそうだ。音楽会とずいぶん違うと思ったのは、上演が始まってからも、時間的制限なく、遅刻してきた人を席にまで、係の人が案内していたことだ。クラシックの音楽会では、演奏が始まったら、通常はなかに入れないか、入ったとしても、席にはつけずに、後ろに立って聴かなければならない。 “歌舞伎を初めて見た” の続きを読む
読書ノート『木のいのち木のこころ』西岡常一
個性を伸ばすといっても、実際には極めて難しい。特に日本の学校では、言葉では言われても、実際には一定の方向にもっていこうとする、つまり、同質性を求める。おそらく、よい教育をしようと思っている人ならば、そうではなく、人間はみんな違うのだから、それぞれの個性、よさを伸ばしたいと思っているに違いない。しかし、それは本当に難しいのだ。まず、じっくりと育てる時間がなければ無理だろう。それに、それぞれ違うものをもっている子どもたちの特性や資質を見抜く力がなければならないし、それを伸ばす方法も、異なる特性や資質に応じて違ってくるはずである。それは教育する者に相当の力量を求める。
だから、往々にみんなを同じ枠のなかに押し込むような教育が、横行してしまうことになる。現在のほとんどの学校では、教師と子どもは2年程度しか師弟関係にはない。そして、卒業していってしまう。その後のことはわからないし、また責任もとりようがない。本書は、宮大工の仕事を通してであるが、みんなを同じに促成栽培するような教育が、いかに間違っているかを教えてくれる書物である。教師の人には、ぜひ読んでほしい。 “読書ノート『木のいのち木のこころ』西岡常一” の続きを読む
ポピュリズム政党の教育政策(2)
オランダ
オランダの自由党(Partij voor de Vrijheid)をみてみよう。
オランダは、長い間、移民政策の優等生と言われ、移民に対する寛容政策が最もうまくいっていると考えられてきたが、2001年の911同時多発テロで空気が一挙にかわる。労働党の論客だったフォルタインが移民への制限を訴える主張をひっさげて、フォルタイン党を結成、2002年の総選挙に挑戦した。選挙の1週間前に暗殺されてしまうのであるが、第二党となったフォルタイン党は入閣した。その直後にオランダに一年の海外留学にいった私は、その当時の政治的混乱をつぶさにみることになったが、フォルタインの人気はかなり大きなものだった。モスクやイスラム学校への暴力的介入などがおき、次第に、社会の反移民的雰囲気も少しずつ強くなっていった。そういうなか、EUへの懐疑も大きくなり、オランダでは、2005年のEU憲法を国民投票で意志を問うことになり、60%が否定し、結局、EU憲法は成立しないことになった。その反対運動の先頭にたったのが、ウィルダースで、自由党を結成し、今では有力な政党として、オランダ政治に大きな影響をあたえている。 “ポピュリズム政党の教育政策(2)” の続きを読む
ポピュリズム政党の教育政策(1)
メディアでは、最近のポピュリズム政党を「極右」と位置づけて報道しているが、それはあまり適切ではない。「極右」とは何かという問題もあるが、常識的には、ネオナチやKKKのように、激しい差別感情をもって、対象を暴力をもって攻撃するような団体と考えるべきだろう。現在でも、そうした「極右」は存在しており、やはり、主要なポピュリズム政党とは区別すべきものである。本来、国民の人気とり政策をするのをポピュリズムというのだから、政治的潮流は多様である。故チャベスのような、あきらかな左翼ポピュリスト政治家もいるのである。現在問題となるポピュリズム政党は、得に欧米では、ほとんどが、「移民政策」への反対を軸にしている。程度の差はあるが、イスラム教徒の流入に反対し、イスラム教徒がその国の価値を受け入れることを条件づけることで一致している。特に、その国の言語を習得することを重視する。そういう意味では、教育が重要な意味をもっているのであるが、実は、ポピュリズム政党の政策のなかで、教育政策はあまり重要な位置を占めていない。しかし、移民問題の現われている場のひとつが学校なのだから、教育政策が彼らの移民政策と合致していなければ、彼らの政策は実現しようがないはずである。 “ポピュリズム政党の教育政策(1)” の続きを読む
『教育』2019.9を読む 「誰もが何かのマイノリティ」
『教育』9月号の第二特集は「誰もが何かのマイノリティ」である。これも意欲的な企画だと感じるし、また執筆者が、私にとっては非常に新鮮であった。企画の趣旨は、マイノリティの配慮が、逆に「やわらかい排除」になってしまうことのないような、「普通の人」のなかにある多様性を見つめ、多様な人たちが多様なままに生きられる社会をめざすと書かれている。非常に意味のある提起だと思う。しかし、ものごとは単純ではないように思うのである。それを少し考えてみた。
最初に喜久井ヤシン氏の『「ふつうの人」ってなんだ問題』という文章がある。
一緒にボートにのっていた兄が嵐にあって転覆し、死亡してしまったことをずっと悩んで、カウンセリングにかかっている高校生を描いた『普通の人々』というアメリカ映画があったが、正直あの映画で、何が「普通の人」なのかはよくわからなかった。喜久井ヤシン氏の文章も、「ふつう」ということの難しさを語っている。氏は、不登校、引き籠もり、フリーター、ゲイという様々な普通でない属性をもっている。だから、「ふつうになりたい」と思っている。ふつうじゃないと、なぜそうなのか説明しなければならない。しかし、説明しても、なかなか理解してもらえないだろう。同じひきこもりのグループにいけば、異質ではなくふつうになる。結局、ふつうとは、「説明する必要がない」状態である。だから楽なのである。 “『教育』2019.9を読む 「誰もが何かのマイノリティ」” の続きを読む