日本型学校教育の検討2 同調圧力と日本型学校教育は表裏一体だ

 今回の中教審答申への提示案は、さすがにコロナ禍を経たなかで出されたので、社会や学校に露わになった問題に対する「配慮」をしているかのように書かれている。しかし、配慮するように書くことと、それを実行可能な案としてまとめること、あるいは、まとめたとしても、それを実行できるかどうかは、全く別問題である。そうした実行可能性という批判的視点がないと、まるでよいことのように書かれた提言の実際の方向性を見失うことになる。
 さて、まずは、日本型学校教育なるもののひとつの側面について検討しよう。

“日本型学校教育の検討2 同調圧力と日本型学校教育は表裏一体だ” の続きを読む

矢内原忠雄と丸山真男14 丸山の抵抗論

 私が取り組んでいるのは、矢内原忠雄論である。いろいろと考えているうちに、矢内原忠雄については、多数の人が多面的に論じているから、多少の新鮮味を出すことが必要だろうと思い、戦後の代表的な知識人と言われた丸山真男と比較して論じてはどうだろうと考えたわけである。もちろん、矢内原忠雄も丸山真男も長いことさまざまな著作を読んできたが、この二人を対比してみると、政治的には比較的近いと見られる知識人でも、かなりの違いがあると感じてきた。結論的にいえば、丸山真男という人物は、「知識人」だったのかという疑問である。矢内原忠雄も丸山真男も研究者として超一流であることは疑いない。しかし、研究者であることの「姿勢」に関しては、ずいぶん違うと感じる。知識人としての姿勢は、100%異なる。

“矢内原忠雄と丸山真男14 丸山の抵抗論” の続きを読む

教育学を考える19 教育における実験

 『岩波講座現代』8巻『学習する社会の明日』の巻頭論文が、「教育の実験をしてよいか」という題になっているので、興味深く読んでみた。しかし、実際には、ほとんどテーマ、つまり「教育の実験をしてよいか」については論じられていないのに驚いた。最初に「教育はもっとも実験室化してはならぬものでありながら、もっとも実験室化しやすいもの」という福田恆存の言葉をひいて、教育における「反知性主義」を批判する形になっている。巻頭論文で、各論文の趣旨を説明することに半分を費やしているが、あまりに題名との内容に乖離が大きい。ついでに、蛇足で書いておくと、この巻は、明らかに「教育」を論じることがテーマになっているが、狭義の教育学者が一人しかはいっていないのにも驚いた。

“教育学を考える19 教育における実験” の続きを読む

「日本型学校教育」を考える1

 先日文科省から、中教審に提出された答申案の骨子が公表されている。そして、「令和の日本型学校教育」の構築をめざす立場からの提言となっている。この「日本型学校教育」という言葉が使用されたのは、2016年の「次世代の学校指導体制強化のためのタスクフォース」の最終まとめ「次世代の学校指導体制の在り方について」からのようだ。これは、「教員が、教科指導、生徒指導、部活指導」等を一体的に行うことを特徴としていることを指し、またその成果として、PISAなどでも「学力面がOECDでもトップクラスであり、更に、勤勉さ、礼儀正しさなど、道徳面、人格面でも評価されてきた」としている。ただし、このまとめでは、こうした特質が教師の労働時間を過重にしているために、いままでのような形の継続は困難になっているという認識があるために、「学校指導体制」の改善が必要であるとしていた。

“「日本型学校教育」を考える1” の続きを読む

学校でのICT活用に欠けている論点 キーボード

 コロナは教育にも大きな影響を与えたし、また今後も影響は拡大していくだろうが、その焦点のひとつがICT活用にあることはあきらかだ。3カ月以上の授業の空白を、オンライン教育で埋めることができたところと、まったくできなかったところでは、大きな差が生じたといえる。もともと、GIGA構想なる、すべての子どもに一台という政策が公表されていたが、コロナでその動きが加速されそうだ。しかし、そこには、大きな疑問もある。実際に活用能力がないところに、機器だけもたせても、どれだけ効果があるのか。本当に教育現場での活用が十分に検討されたなかで、出てきた構想なのか、等々。人によっては、いろいろな疑問があるだろう。私が、構想の文章を読んだときに、最初に感じたのは、ああこれは、国内のコンピューター企業へのてこ入れ、助成が目的なのかということだった。

“学校でのICT活用に欠けている論点 キーボード” の続きを読む

二大政党の幻想を捨てよう

 安倍首相の辞任を受けて、いろいろな議論を出ているが、その一つに「二大政党」制の実現を望む声がある。何故、二大政党制が言われるのかというと、政権交代の可能性があるからだという。そして、二大政党制と密接不可分なのが、小選挙区制である。二大政党制は、結果として生じるものであって、制度的に決めることはできない。だから、決めることができるのは「小選挙区制」であって、実際に日本でも導入されて、一度、それらしき政権交代があった。しかし、その政権交代は混乱を生み、その後は、長期政権が続いてしまった。そして、その長期政権下に起こった事態は、政治の劣化そのものである。与党も野党も同様だ。その弊害は明らかである。尤も、政権交代といっても、それほど頻繁に起きるわけではなく、10年から15年程度に一度起きればよい、という考えでいえば、まだ、最終的な判断は早いのかも知れない。

“二大政党の幻想を捨てよう” の続きを読む

核廃棄物処理問題 野党は政策を提示すべき

 コロナの影でニュースの扱いは小さいが、原発関連の重要な展開があった。7月に、青森県六ヶ所村の核燃料再処理工場の、福島原発事故以後の基準で審査に合格したということ。もうひとつは、北海道壽都町の町長が、核廃棄物処理場の候補地となる「調査」受け入れに、名乗りを上げたということである。前者は、審査に合格したが、実際の稼働は、2年後を予定しており、それも実際に可能になるかはわからない。実際に、再処理工場の建設が始まってから27年が経過しており、その間何度も不都合が起きて、延期が繰り返されてきた経過があるからだ。そして、再処理されたプルトニウムを、実際に原発でどのように使用するかの計画は、きちんとたっておらず、しかも、既に外国に再処理を依頼して、蓄積された燃料が50トンもあるのだそうだ。この再処理計画は、止めるという政策も、理論的には可能だが、一旦始めたことは引き返すことはできない、という対中戦争から太平洋戦争に至る経過とよく似ているという人もいるような様相を呈している。これだけの資源を投じて継続してきた国家的事業を止めるというのは、確かに、命をかけるくらいの首相の決断が必要なのだろう。原発だって、止めることは可能だ。実際に福島原発事故のあと、数年間は、原発なしに電力が供給されてきた。当初は節電が叫ばれたが、少なくとも原発再稼働前に、節電も叫ばれなくなった。電力供給の企業間の調整が機能しだしたからだそうだ。

“核廃棄物処理問題 野党は政策を提示すべき” の続きを読む

安倍首相辞任の意向

 昼食時、テレビを見ていたら、安倍首相辞任の意向というニュースが流れて、あとはずっとこの問題をやっていた。24日に、安倍首相は、何も積極的な業績を残さずにきただけではなく、負の遺産を残したと書いたあと、とにかく早く辞めてほしいと書くつもりだったが、書かなくてもわかるだろうと、省略した。意外と早く辞任の意向が表明されたので、よかった。ただ、テレビを見ていると、テレビ界の人たちは、辞任はしないだろうと見ていたようで、ある解説委員などは、「安倍さんは責任感の強い人だから、多少身体が悪くても、仕事をするのではないか」と思っていたなどといっていたのには、驚いた。安倍首相ほど、「責任感のない」人はあまりいないというのが、批判的な人の共通認識だからだ。「私に責任がある」といって、責任をとったことは、一度もないといえるだろう。森友問題で、妻が関与していたら、議員も辞めるといったあと、妻の関与が誰の目にも明らかになっても、記録を改竄させ、はては、自殺者まで出してしまったのに、いかなる責任もとっていないし、調査すら拒否している。

“安倍首相辞任の意向” の続きを読む

『教育』2020.9号を読む 石井崇史「子どもの世界に応答する教材づくり」

 9月号特集1「子どもの学びを拓く教育課程と教材文化」には、現場の教師の実践が2本掲載されているが、いずれも非常によかった。やはり、現場で意欲的な実践に取り組んでいる教師の文章からは、学ぶことが多い。といっても、疑問もあるので、両方のことを書いておきたい。
 小学校4年生の理科の授業で、豆電球と乾電池のつなげ方による違いを学ぶ単元である。目標は、電池や豆電球のつなげかたで、明るさに変化が出てくることを、実際に確認することのようだ。私がもっている教科書では、非常にすっきりとした構成になっているが、石井氏の使用している教科書は違うもので、単元の最初に、必ず身の回りのものを取り上げることになっていて、ここでは、「身の回りで電気を利用している物には何があるか」という問いに、電気自動車の写真をみて、「電気自動車はどのように走っているのか」という問いが続く。石井氏は、これが単元とほとんど関係ないし、余計な部分になっていると考えている。確かにその通りで、私は、そういうのは無視すればいいと思う。単元そのものではないのだし、まだ実用化があまり進んでいるとはいえない電気自動車など、「電気を利用しているまわりの物」にはふさわしいとはいえない。自由に子どもたちに、出させればいいだけのことだろう。そこで適切な教材が必要だという話になって、仮説実験授業の授業書を参考にしたようなことが書いてある。ただ、その当たりは、実際に揃っている実験器具などと、どういう関係になっているかは、よくわからなかった。とにかく、導入的にはうまくいって、いよいよ、今回の授業の本来のテーマである「豆電球の明るさをもっと明るくするにはどうしたらよいだろうか」と、子どもたちに問いかけたところ、A君が、「教室を暗くする」と答え、クラス一同賛成してしまったというのである。

“『教育』2020.9号を読む 石井崇史「子どもの世界に応答する教材づくり」” の続きを読む

エアコンをつけられない人もいるが

 小学校の体育の授業でリレーの練習をしていて数名が、熱中症で病院に運ばれたという報道があった。2年前の校外学習の教訓は、もう忘れたのだろうか。あのときは、まだ酷暑の夏が来る前だったし、通常の一学期だったが、今日は、本来夏休み中のはずだった酷暑の日だ。そこで、外でリレーの練習をするという感覚がわからない。学校管理者は、50歳を越えている人が多いだろう。50歳以上というのは、ふたつの点で、この点での判断ミスを起こしやすい。彼等が子どもだったときには、今のような酷暑は滅多になく、夏だろうと、校庭で陸上の練習をすることは、避けるべきこととは意識されていなかった。また高齢者は、特に暑さを感じるセンサーが衰えてくるのだそうで、50代でもそういう人は少なくないそうだ。このセンサーが衰えてくると、酷暑なのに、暑さを感じないので、対応をとる必要性を感じないわけだ。あるいは、今の学校は、多くがエアコン付きなので、外の気温の感覚に鈍くなっているのかもしれない。エアコンの効いた教室の次に、酷暑の校庭に出る場合、気温のチェック等は厳重に、事前に行って、大丈夫かどうかを確認すべきだ。

“エアコンをつけられない人もいるが” の続きを読む