二人とも、近代から現代に至る思想家としての巨人であるが、いつも私が不思議に思っていることがある。単純な私的興味に過ぎないかも知れないが、丸山真男は長い執筆活動のなかで、ただの一度も矢内原忠雄について触れていないことだ。丸山真男集の別巻に、人名索引があり、丸山真男が書いた文章のなかで触れられている名前がすべて掲載されているのだが、そこには矢内原忠雄の名前はない。矢内原忠雄は丸山よりずっと年長で、東大を追われたときに丸山はまだ助手(学部を卒業して次の年)だったのだから、矢内原が丸山真男について触れないのは不自然ではない。しかし、丸山真男は、助手になった年に、法学部と経済学部が軍部やそれにつながる教授によって攻撃されていた時期であり、矢内原事件が起きたのである。そして、戦後の丸山が、日本における戦争責任を問い続け、単に支配層だけではなく、知識人の普遍性に対する弱さや、そこからくる権力への迎合性を批判し続けた以上、戦争をまっこうから批判し、そのために東大を追われ、それでも屈することなく信念を貫いた矢内原忠雄を、まったく取り上げなかったのは、非常に不思議といえよう。矢内原は、丸山の直接の指導教官であった南原繁の次の東大総長であり、かつ、戦後の平和運動の中心的人物であり、直接の接点もあったはずである。南原は、矢内原についての文章をいくつか書いている。また、矢内原の没後、まとめられた追憶集『矢内原忠雄--信仰・学問・生涯--』(岩波書店)の編集責任者であり、「まえがき」の他、「真理の勝利者」「信仰と学問」という短文が掲載されている。しかし、丸山の文は当然ない。
残念ながら、丸山真男集に収録されていないので、読むことができないのだが、丸山には、「普遍の意識欠く日本の思想--丸山真男氏を囲んで」という、一橋大学での質疑応答の文章があるそうだ。浅井基文氏のサイトによって、簡単な紹介がなされているが、http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/maruyama/zakkan/2007/070817.html 「普遍」とは、丸山においては、「人間の尊厳」ということのようだ。こうなると、ますます、矢内原忠雄こそ、最も重要な人物として掘り下げる必要があったと思うのだ。単に「思想家」というだけではなく、実際に、当時の社会の戦争体制に対して徹底的に批判し、行動したという「実践家」としても。もちろん、それは、丸山の受け入れられる思想でなかったのは事実である。キリスト教もマルクス主義も丸山の思想の根底にはなかったものだから、そういう意味で思想家として相いれないことは、自明である。しかし、丸山は、「内村鑑三と『非戦』の論理」という文章で以下のように書いている。
「明治の思想史において最も劇的な場景の一つは、自由と民権と平和のわれ人ともに許すチャンピオンたちが二十年代の終りから三十年代にかけて相ついで国家主義と帝国主義の軍門に降って行く姿である。」
内村は、日清戦争に賛成の立場から、日露戦争に反対するという、逆の転向をしたわけだが、それに対して
「内村の非戦論が単にキリスト教的復員の立場からの演繹的な帰結ではなく、帝国主義の経験から学び取った主張であったということは、彼の論理に当時の自称リアリストをはるかにこえた歴史的現実への洞察力を付与する結果となった。」と書いている。(『戦中と戦後の間』丸山真男 みすず書房)
これは、明治を昭和に変え、日露戦争を日中戦争に変えれば、すっかり矢内原忠雄に当てはまる。しかも、矢内原の場合には、より軍国主義の露になった時代において、敢然と軍部を批判したのであり、しかも、矢内原のそうした批判の勇気を与えたのは、キリスト教信仰における「普遍性」への確信であった。矢内原にしても、内村にしても、時流に抗して、歴史の検証に耐える行動をしたこと、そして、それは普遍性への確信をもっていたからこそである、と考えれば、丸山は、単に日本の知識人には、普遍という概念がないなどと批判するのではなく、例外的はあったが、内村や矢内原を、日本の知識人のなかに、しかるべき位置を与える必要があったのではないか。
丸山が矢内原忠雄を、まったく思想家、知識人論のなかで無視したのは、単に関心がなかったのか、あるいは、丸山の考えそのものの弱点として、矢内原忠雄のような人物を扱うことができなかったのか。それを、これから時間をかけて考察してみたいのである。
エドワード・ザイードは、『知識人とは何か』(平凡社)のなかで、たとえ、思考の結果でてきた結論が、自分にとって不利益なものであっても、その結論を堅持できることを、知識人の必要な資質としている。矢内原忠雄は、その点、いかなる点でも「知識人としての資質」において非難されるところがなかった人物である。そのことは、多くの人が書いている。
では、丸山真男はどうだったのだろうか。丸山は、日本の知識人のあり方について、様々な規定をしているが、ここでは、「現代日本の知識人」における「悔恨共同体の形成」という概念を考えよう。
「敗戦後・・『配給された自由』を自発的なものに転化するためには、日本国家と同様に、自分たちの、知識人としての新しいスタートをきらねばならない、という彼等の決意の底には、将来への希望のよろこびと過去への悔恨とが--つまり解放感と自責感とが--わかち難くブレンドして流れていたのです。私は妙な言葉ですが仮にこれを『悔恨共同体の形成』と名付けるのです。つまり戦争直後の知識人に共通して流れていた感情は、それぞれの立場における、またそれぞれの領域における『自己批判』です。」(丸山真男集10 p254)
この「悔恨共同体」という概念には、戦前の様々な立場を包括し、それぞれが戦後の新しい立ち位置を見つける際に、反省という共通の感情があったのだとする。
丸山自身もこの「悔恨共同体」の一員だったのだろうか。多くの丸山論文を読む限り、自身はこうした共同体の外に置いていたと感じるのだが、間違っているだろうか。自身は違うと思わなければ、あれだけ戦前の支配層や知識人の思考様式そのものに対する批判はできなかったはずである。また、矢内原忠雄は、この「悔恨」共同体の一員なのだろうか。私には、とうていそうは思えない。
丸山の戦前、戦中の研究者生活をみる限り、果敢に軍国主義を闘ったとはいえない。もちろん、時代を考えれば、そのこと自体非難すべきことではない。少なく迎合せずに、ひっそりと地味な研究をしていること自体が、けっして容易なわけではなかった時代である。だから、やはり、心のなかでは、丸山自身が、悔恨共同体の一員であると考えていたに違いない。そのことを、少しずつ論証していきたい。そして、そのことが、丸山の分析に、どのような影響があったのかを考えていくことにする。
その一環にもなるが、二人の大学教授・管理者として、学生運動とどう関わったかを、簡単にふり返っておこう。これは、思想家、知識人としての対応として、重要な要素だから。
戦後、矢内原も丸山も、学生運動と向き合うことになる。そして、双方ともに、学生運動家から批判される。しかし、歴史的にみれば、その評価は全く異なる。
矢内原は、東大の教養学部長時代に、学生のストライキ闘争に遭遇したり、あるいは、総長のときには、ポポロ事件の対応に追われた。このときには、国会に呼ばれて証言もしている。教養学部のストライキのときには、授業を受けたい者は、塀を破ってもよいとして、ピケのないところから、学生を構内にいれた。そして、その壊れた塀を門にしたのが、矢内原門としていまでも残っている。
丸山は、いわゆる東大紛争のときに、研究室が全共闘によって荒らされたとき、「ヒトラーでもこんな酷いことをしなかった」と叫んだという話が広がり、かなり学生運動家から非難されたと言われている。その話が本当であるかどうかは、私にはわからない。しかし、丸山は、責任ある地位についていたわけではないので、学生と直接対峙しなければならないわけではなかったようだ。難病を何度も繰り返した丸山は、この後も病臥に伏すことになり、その後、健康になって復帰することはなかった。数年後辞職している。丸山は、大学の教授として、当時の紛争処理に奔走したわけではなく、たまたま口走ってしまったのかも知れないが、本当のことであるとするならば、やはり、修羅場を切り抜ける資質ではなかったのかも知れない。(丸山真男集第10巻の解説によると、1967年の法学部学部長選挙で、丸山が当選したのだが、健康上の理由で辞退し、辻清明氏が学部長になった。そして、その1年後紛争となり、丸山は、辞退したという手前、学生対応に関しては、意見を述べることを自分に対して封じた。そのことが、逆に学生からの批判を引き起こしたと考えられている。もし、健康に問題がなく、予定通り丸山が学部長になっていれば、彼自身の関わりや法学部の対応もまた、違っていたかも知れない。)
矢内原は学部長として、長期的に学生運動と対峙せざるをえなかった。そして、スト破りともいえる行為を学生に許したのは、「いかなる理由にせよ、教育を受けたいという権利を侵すことは、誰にも認められないのだ」という固い信念から出たことなのである。だから、ストライキ闘争の指導者は、非難したが、多くの学生や教職員からは支持を受けていた。つまり、多数決で決めていいことと、決めていけないことがある。憲法も、基本的人権を否定する法を作ってはならないとしている。たとえ、国民に選挙で選ばれた議員が、多数決で決めようとも、許されないのである。「教育を受ける権利」は、その基本的人権の重要な柱のひとつである。