「普遍の意識を欠く日本の思想」が収録されていないと書いてしまったが、実際には、16巻補遺に収録されていた。早速読んでみた。
「いかなる地上の俗権をもこえた価値の存在は、クリスト教でいえば神に対して自分がコミットしているということになる。「人に従わんよりは神に従え」という復員の言葉はそれです。・・・どんなに俗権が強く、長い歴史をもとうとも、地上の権力を超えた絶対者・普遍者に自分が依拠ししているのだということが、抵抗権の根源であり、同時に教会自身が宗教改革を生みだした原因です。」
「日本とヨーロッパのちがいはそこにあると考えます。宗教、つまり聖なるものの独立が人間に普遍性の意識を植えつける。そしてこの見えない権威を信じないと、見える権威に対する抵抗は生まれてこない。美佳ない権威、それは無神論者は歴史の法則と呼びますが、神と呼んでも何と呼んでもいい、そうしたものに従うことは、事実上の勝敗にかかわらず自分の方が正しいのだということで、さっき煎った普遍的なものへのコミットとはそういうことです。それが日本では弱い。」
今後更に考えていきたいが、「欠く」と「弱い」ということには、かなりの相違があるように思う。また、ここに書かれた普遍性に関しては、矢内原忠雄はそのまま当てはまる。なぜここまで書きながら、丸山が矢内原を無視したのか、まるで、そういう抵抗者がいなかったかのように扱っているのは不可解である。
日本史のなかで、まったくこうした普遍性と結びついた思想がなかったかといえば、一向宗などはかなり該当するのではないだろうか。ただ、抵抗勢力としては徹底的に戦国大名によって弾圧されてしまったこと、江戸時代になって、体制的システムのなかに完全に組み込まれ、キリスト教が人権思想を生みだしたような、新しい人間観を生まなかったという点で、「弱かった」ことは事実だろう。
ナチスなどに、キリスト教勢力が協力に抵抗したわけではないことも、歴史的な事実であるから、ヨーロッパにおいて、丸山のいうような普遍思想が、常に「強かった」わけでもない。そうしたことも含めて、個々の事実を考察していくことが必要だろう。