『教育』2020.7号を読む オリパラとナショナリズム1

 7月号は、オリンピック・パラリンピックとナショナリズムの関係を論じた論考が二つある。 森敏生「オリパラ教育のあり方を再考する」と 石坂友司「オリパラが生みだすナショナリズムを考える」だ。前者が、オリパラ教育を基本的に推進する立場、後者が疑問を呈する立場で、方向性が異なった文章だ。『教育』としては、比較的珍しい現象で、私はとても好ましいと思う。教育科学研究会といえども、見解は多様でかまわないはずであり、異なった意見をぶつけ合うことで、新しいものが生みだされていくとしたら、教科研の発展のために、とてもいいことだと思う。
 オリンピックがナショナリズムの高揚に、政治的に利用されていることは、疑いないところだ。オリンピックやスポーツの推進に、極めて熱心な人なら、それに疑問を感じないかも知れないが、私のような、スポーツ好きではあるが、あくまでも趣味だと思っている人間にとっては、過度のオリンピックの入れ込み、そして、それがナショナリズムと結びつくことについては、やはり、疑問を強く感じる。
 両氏の文章にあまり書かれていないが、実はオリンピックといえども、ずっと以前から、ナショナリズム的色彩が強かったわけではないし、また、国家がそういう方向で力をいれていたわげでもない。いくつかの段階を経て、ナショナリズム的な要素が強くなっていったと言われている。最初は、第一次大戦、1936年のベルリン大会、そして、モスクワ五輪へのアメリカなどによるボイコットだろうか。そして、現在のオリンピックに関しては、ナショナリズムだけではなく、商業主義も大きな問題を孕んでいる。商業主義は、モスクワ大会の次のロサンゼルス大会から強まった。
 森氏が指摘するように、当初からナショナリズム的傾向が、オリンピックに強かったわけではない。最初は個人参加だったようだし、極めて規模の小さな大会だった。ただし、クーベルタンがオリンピックを構想した背景には、譜仏戦争でフランスが敗れたことがきっかけになり、国民の体力増強が必要であると考えたことがあるとされる。しかし、他方で、クーベルタンが、オリンピック精神という 「卓越性」「敬意・尊重」「友情」をオリンピックの本質的価値、「努力から得られる喜び」「フェアプレー」「尊敬・尊重の実践」「卓越性の追求」「身体・意志・精神のバランス」が主張されていたことは、歴史的事実だろう。しかし、実際に行われているオリンピックへの対応として、そうした価値とは無縁の現象が生じていることも事実である。私に強烈な印象として残っているのは、キムヨナと浅田真央の最後のオリンピックでの争いだ。冷静な予想としては、キムヨナの勝利だったが、日本のファンたちは、SNSで、キムヨナが練習中に怪我したらいい、というような書き込みが多数あったと報道された。さらに、キムヨナが勝利して、その採点は間違っていなかったと解説した荒川静に、酷い非難が浴びせられるということもあった。私は、嫌な気持ちになってことを鮮明に覚えている。
 さて、森氏の文章だが、オリパラ教育を推進する団体を作って、活動していたが、実は学校現場では、オリパラ教育に対して、多額の予算がつけられて、教育委員会がはっぱをかけているのに、あまり進んでいない実情が報告されている。その理由として、森氏は、以下の点をあげている。
120年以上続く新自由主義的な改革で現場が疲弊している。
2新学習指導要領でプログラミング教育や英語教育などが負担となっている。
3辻褄合わせの「働き方改革」で、余計なことはやりたくないという現場の感覚が強い。都の教育委員会自身の進め方にも問題を指摘しています。
4都の教育委員会自身が、既存の計画をちょっとアレンジすれば済むような、「裏の顔」も用意している。
5「日本人としての誇り」「豊かな国際感覚」などが、なぜオリパラ教育なのかわからないと、思われている。
以上だ。
 これでオリパラ教育を、余分なものとして実施せよというのは、現場を疲弊させるだけだろう。しかも、東京では、単に教室だけの教育ではなく、様々な行事に子どもも含めて駆り出される。オリンピックが開かれれば、望む子どもたちが多いとしても、割り当てで競技を見にいくことになる。教師からすれば、かなり大変な引率という業務が増えることになる。
 このような弊害が現実に生じていることは認めつつも、森氏は、オリパラ教育推進の必要性を主張している。それは、先に紹介したオリンピックの基本的な価値を教えることにある。しかし、教室でそれらの価値を教えるとしたら、それは道徳教育に変質してしまうのではないだろうか。また、オリンピックは、そもそもが高度な水準のスポーツであるから、体育教育の一環として行うものだろうか。しかし、それは、学校教育における「体育」とは相いれないと、私は思う。 基本的に学校における体育教育は、身体の健康増進のためにあるべきで、各種スポーツを体育に取り入れるにしても、基本的な身体運動を促進するのに効果的な種目に限定するべきであり、競技的なスポーツは、導入的なレベル以外は、学校体育からは外すべきであると思っている。学校教育は、基本的に「共通の教育価値」によって構成すべきであり、スポーツや芸術の領域は、各人によって好みや適性が異なるからである。基本教科は、国民として、人間として誰にも必要な内容だから、学校教育の基本的な教育内容として構成される必要があるが、バレーボールが好きか、野球、サッカーが好きかというのは、個人差がある。みんながバレーボールのある程度の水準が、学校の体育で求められるというのは、疑問である。個別競技スポーツは、社会体育に移管すべき時期に来ている。もちろん、学校の多様性を認める立場から、我が校は、スポーツ(たとえば、特に陸上競技)を重視した教育をするという方針であれば、それはいい。陸上競技を重点的にやりたい生徒が入ってくるのだから。
 オリンピック開催都市となると、オリパラ教育をするように求められていると、森氏は説明しているが、50年に一度回ってくるかどうかという行事に合わせた教育を、学校教育のなかに取り入れるということも、大分無理があるように思われるのだが、どうだろうか。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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