『教育』2020.7号を読む オリパラとナショナリズム2

 昨日に続いて、今回は石坂友司氏の「オリパラが生みだすナショナリズムを考える」を考えたい。
 石坂氏は、オリンピック・パラリンピックとナショナリズムの関わりについて、ポジティブな面もあると断りながら、ネガティブな部分を強調する形になっている。ポジティブ面はほとんど書かれていない。私には、スポーツがナショナリズムと結びつくことのポジティブな側面というのは、思いつかない。昨日書いた、当初のオリンピックの価値を見ても、むしろナショナリズムを越える部分に意味があるといえる。国籍を越えて讃えあうとすれば、オリンピックとしての感動的な場面となるだろうが、勝った相手が違う国籍であるから、祝福しない、あるいは逆に、自分たちの国が勝者になったからうれしい、というようなことは、そんなにポジティブな価値とは思えない。
 互いに政治的に紛争状態にあっても、オリンピックの場面では友好的になれるとすれば、それは、ナショナリズムではなく、ナショナリズムにとらわれない行為・感情である。
 石坂氏は、そのネガティブな面として、以下の点をあげている。

ア オリンピックとサッカーのワールドカップは、ナショナリズム高揚の危険な空間になりうる。
イ オリンピックでの成否が個々のスポーツ組織の浮沈にかかわるようになった。
 マイナー競技への対応にはふたつあり、日本のような平等補助とイギリスのメダル獲得可能性の種目に補助するタイプ。
ウ メダル獲得にネイションを巻き込むことで、政治的な一体感を作り出そうとする政治、商業的利益を最大化しようとする経済界、あらゆるところが五輪に依存するシステムを生みだしている。
 日本では、スポンサーとなる企業の動向に表れている。
エ 世界的に重要な選手の活躍には目を向けず、日本人選手だけに注目するメディア
オ 全員団結の裏の排外主義
カ パラリンピックは、必ずしも障害者スポーツの理解にはつながらない。

 アについて、私の記憶のなかでは、サッカーのワールドカップ、日韓共催の大会で、韓国とアメリカの対戦で示した、韓国選手のアメリカ選手に対する、意図的とも思えるラフプレーが印象に残っている。昨日書いた、キムヨナと浅田真央の闘いにおける、日本人ファンの対応も、がっかりさせられるものだった。そういう傾向は、近年になるほど顕著に感じるのである。
 前回の東京オリンピックで、最後のマラソンは、当時日本がメダルをとれそうだというので、かなり期待が強かった。実際に円谷が銅メダルをとったのだが、それでも、本番前から、日本においても、おそらく最も注目され、また、人気があったのはエチオピアのアベベであった。そして、予想通りアベベが連続で金メダルをとったとき、ほとんどの日本人は、素直にアベベを祝福していたと、私は記憶している。
 当時、まだ国際的なテレビのライブ中継が可能になる前だったので、オリンピックは現地で見るか、あるいは、映画として編集されたものを見るしかなかった。だから、他の国で行われるオリンピックは、今よりずっと冷静な受け取りだった。しかし、世界の通信ネットワークが整備され、24時間世界中の電波が、相互に送信できるようになり、オリンピックは世界中にライブ中継されるようになった。テレビ局は、こぞって自国の選手の競技をライブで中継し、メダル数をリアルタイムで競う感覚が高揚した。それと同時に、オリンピックの商業化が進み、メダル数が、単に選手だけではなく、財界やメディアにおける「経済的成功」にも関わるようになってきた。そして、意図的にナショナリズム的雰囲気が煽られるようになったと、私は感じている。石坂氏がウで指摘していることだ。
 オについては、オリンピックではないが、バレーボールの世界大会で、私が直接経験したことだ。日本対オランダの試合を代々木の体育館に見に行った。 試合が始まる前に、中継するアナウンサーと思われる人が出てきて、「これから応援の練習をしますので、みなさん一緒にやってください」という。そして、彼が音頭をとって、「ニッポン、チャチャチャ」という例の応援の練習を何度か観客にやらせていた。私は、こういうことが大嫌いだというだけではなく、オランダを研究していることもあって、オランダが好きであり、一方的に日本を応援しているわけでないので、腕を組んでいた。それまでは「ニッポン、チャチャチャ」は自発的な応援なのだとばかり思っていたのに、実はこうしてメディアによって仕切られていたのだということがわかった。日本人は日本人を応援せよと強制している。これは、やはり「排外主義」といえる。
 ウは、まさしく今進行している状況だろう。しかし、好ましいことではないし、皮肉なことだが、新型コロナウィルスは、そうしたオリンピックのあり方に、大きな矛盾をもたらした。今後東京大会がどうなるかわからないが、関係者が、予定調和的に仲良く、協力しあって成功に導こうとするとは、思えない事態となっている。延期に伴う資金の負担は誰がするのか、新型コロナウィルスの感染状況をどのように考慮して、対応を決めるのか、もし、中止になったら、これまでの負担・損失をどのように補填するのか。オリンピックが巨大な利権構造の産物になってしまった以上、それぞれの利権団体は、互いに利益が衝突する。およそ、オリンピック精神とは異なる関係団体間の対立が起きるのではないだろうか。それは、開催国家の国家利益(ナショナリズム)、IOCというインターナショナル利益、そして、メディアやアスリートの個別利害が、対立していくだろう。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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