矢内原忠雄と丸山真男2 研究者としての外見

 矢内原忠雄研究の一環として、丸山真男との比較論をしばらくやることにした。単なる私自身の興味に基づくものだが、この間いろいろと考えていると、考察に値する課題がいろいろあるという感じがしてきた。
 まず研究者になる過程が、双方かなり独特である。まずそこから比較していこう。
 矢内原は、1893年(明治26年)の生まれだから、19世紀と明治を体現しているわけだが、第一高等学校入学時でも明治であり、明治の人間としての資質を感じさせる。父は医者の家系であった。教育熱心であった父が、神戸一中にいれた。その校長は、札幌農学校で新渡戸や内村と同期だった鶴崎久米一であり、この点も、後に内村の弟子になる下地になっていたと思われる。神戸一中、一高と抜群の成績トップを維持したが、大学入学にあたり母が死亡、そのショックで勉学意欲が落ちたとされるが、それでも法学部時代二位をキープしたという。一高時代どうしても矢内原に勝つことができなかった舞出長五郎が一位となった。つまり、東大法学部時代までも含めて、抜群の秀才だったわけであったが、それでもガリ勉タイプではなく、弁論部などの活動を行う、また、校長新渡戸稲造が徳富蘆花事件で辞任するにあたって、新渡戸擁護運動をリーダーでもあった。
 矢内原が、いかにその知的水準で高く評価されていたかは、東大に迎えられた状況でわかる。彼は、当時の法学部卒の秀才としては異例の民間企業に就職し、愛媛県で3年を過ごした。そして、東大に経済学部が設置され、新渡戸の後任が必要となったとき、矢内原が招請されたのだが、民間企業で事務に携わっていたわけだから、論文などひとつもなかった。手紙くらいあるだろうというので、ある人に書いた手紙を提出し、それで東大経済学部の助教授に採用されたのである。手紙ひとつで助教授になったのは、自分くらいだろうと、後年語っている。任官後直ぐにヨーロッパに3年留学したが、大学の講義に出席するよりは、市街地を観察したり、文化に触れていることのほうが多かったという。これで講義などできるのか、という同僚たちの不安が強かったらしいが、帰国後講義を始めると、その重厚さ、学識の広さ、理論の新しさに、みな驚いたという。そして、次々に研究書を出版した。しかし、1937年(昭和12年)に大学を辞職するので、実質的な研究生活は12,3年に過ぎなかった。その間に、矢内原忠雄全集の5巻分の学術書を表わしている。全集は、各巻600ページ以上ある。そして、それ以外にも、多数の時論的な文章を書いている。矢内原は、大学を追われた後は、国家によって必要とされていないとの立場で、研究をせず、キリスト教徒としての活動に専念するので、以後新しい学術研究書は一切出すことはなかったが、それでも、短い期間の業績は大きなものがある。
 
 丸山真男はどうだろうか。
 周知のように、丸山はジャーナリスト丸山幹治の次男として大阪に、1914年(大正3年)に生まれたが、小学生のときに東京に転居して以来、東京で育った。府立一中、一高、東大という典型的なエリート秀才コースだったが、中学は5年かかるとか、矢内原のような圧倒的秀才で通したわけではなかった。しかも、一高のときに、意識的に運動に参加していたわけではないのに、特高に捕まった経験をもつなど、何か積極的に参加したというわけではなく、漠然とした学生生活であったような印象がある。たまたま卒業間際にあった助手の募集に応募したところ、採用され、南原繁につくことになる。ここで、本来やりたかったヨーロッパの思想ではなく、南原の指導によって、将来設置されることになっていた東洋政治思想史講座担当ということで、日本の政治思想を専門とすることになった。助手になった年に、経済学部で矢内原事件が起こっている。一高のときに、本当は文学部希望だったが、反対され、経済学部には兄がいたので、法学部に入学したとされている。もし、兄がいなければ、経済学部に進学したかも知れず、その場合、当然矢内原の講義を受けたはずである。もっとも、その場合でも、矢内原よりは河合栄治郎に師事することになったのではなかろうか。助手から助教授の時代は、日本の軍国主義かがどんどん進んでいく時代であり、特に、始まった東洋政治思想史講座の授業は、最初津田左右吉によってなされ、この講義が右翼の攻撃を受け、津田左右吉の著書が発禁になったり、早稲田大学を辞職することになるという荒波に揉まれることになる。それ以外は、戦争が終了するまで、(兵役期間があるが)ひたすら象牙の塔にこもって、地味な研究に没頭していたといえる。

 二人の学者となるまでの歩みをみると、似ている面とそうでない面がある。似ている面としては、二人とも、自らの意志で、研究者としての専門領域を選択していないという点である。矢内原は、民間企業に勤めているときに、突然東大のポストの関係で、適任だということで、いわばスカウトされたのである。卒業時に、東大に残って研究の道を歩むことを希望すれば、それは大いに歓迎されただろう。本当は、朝鮮に渡って、人民のために尽くすような仕事をしたいと考えていたようだが、実家のことなども考えて、郷里に帰る形での就職になっていた。もちろん、新渡戸の担当していた講座であるから、それを拒む意志があったわけではない。
 丸山も、本当は文学をやりたかったのに法学部に進学し、西洋の思想史を専門にしたいと考えていたのに、南原の構想で日本の思想史にした。明らかに自分が望んで選択した専門領域ではなかった。不本意の度合いは、丸山のほうが大きかった。戦後になっても、専門領域を広げたわけではないのは、日本の政治思想史の専門に満足していたのかどうかはわからない。
 東大の教官としての姿勢、研究者のスタイルという点では、かなりの相違がある。
 矢内原の学問は、徹底して「調査」に基づいた実証的な研究であり、対象が植民政策だから、それは、当然政府の植民地政策への痛烈な批判となる研究だった。台湾や南洋群島に調査旅行を敢行し、そこで得たデータや実際の観察から、日本の植民政策の実態を暴き出した。また、次第に軍部が政治を操るようになり、戦争が拡大していく過程において、容赦のない批判を続けた。専門を踏まえた時事論文も多数執筆している。さらに、彼が行動の人であったことは、キリスト教徒としての活動があった。日曜日に家庭集会を行い、そこで聖書やキリスト教文献の講義を、死の病で入院する直前まで続けたのである。従って、矢内原忠雄は、「行動する研究者」であり続けた。容赦ない政権批判も辞さなかったので、伏せ字の出版や発禁も数知れずという状態だった。治安維持法違反に問われて、逮捕されることがなかったのが、不思議なくらいである。
 
 他方、丸山真男は、まったく象牙の塔の研究者であり、安保闘争などで活躍したために、行動的な研究者と見なされることが多いが、それはごく一時期のことであり、戦後に三島の住民の学習会に関係をもった以外、そうした活動も目立たない。講演もあまり引き受けないことで有名だった。そして、戦前は、時代の影響も強いが、100%研究室に籠もりきった状態だった。発表する場も「国家学会雑誌」がほとんどであった。
 丸山は、主体的な人間をめざし、それを思想史的なレベルで明らかにする研究をしていたと、一般に考えられているが、実際の丸山は、行動的な人間ではなかった。そのことが、彼の「理論」にどう表れているのか、本当のところは、行動を回避するような理論だったのか。私が究明したいのは、そのことなのである。
 矢内原忠雄は、私が大学に入学したときには、既に故人であり、むしろ、大学紛争時には、学生運動を弾圧した張本人として、学生活動家には不人気だった。当時矢内原三原則という学内慣行があり、あやふやな記憶だが、学生のストライキに関して、提案者、そのときの自治会委員長、採決時の議長は無条件に退学であった。(三者については、多少違うかも知れない。)ただし、この場合には、復学が認められていた。そして、「矢内原門」がスト破りの象徴という人たちもいた。しかし、高校時代から矢内原の全集を読んでいたので、そうした考えには同調できなく、活動家諸君とずいぶん議論したものだ。しかし、学生にとっては過去の人であったことに変わりはない。
 しかし、丸山真男は、まだばりばりの現役有名教授であり、私が入学する少し前に教養学部に一般教養科目の「政治学」を講義に一学期間きたということで、そのときの人気のすさまじさを先輩に聞かされた。ところが、有名な話だが、全共闘が法学部研究室を占拠したとき、「ナチもやらなかった暴挙だ」と叫んだという噂がたち、授業はないし、さらに病気であったために、長く休講状態で、結局、定年を待たずに辞職した。そして、その後は、非常に稀に小さな文章を書くだけで、表立った「知識人」的活動はしなかったので、私にとっては、丸山真男というのは学者であり、噂では戦闘的な知識人ということだったが、その実感はなかった。
 そして、丸山の一番弟子とされる石田雄教授の教養ゼミ(紛争後設置された新しい演習)を履修することができて、そのとき石田教授が、本当は政治学者というのは、政治的実践と政治学の研究両方するのが理想だが、人間の能力には限界があり、私は研究をしっかりやって、実践はしないことにしていると語っていたのが印象的だった。実は、丸山真男という人も、そういう姿勢だったのではないかと思うのである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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