教育学を考える14 オンライン教育も教育

 私が教育学を研究を志して以来、最も信頼する教育雑誌は、教科研の機関誌である『教育』だった。だから、50年間以上、毎号というわけにはいかないが、ずっと読み続けてきた。手持ちのものは、ほとんどを自炊して、デジタル化して読んでいる。古い時代の教育に関する議論などを参照するときには、真っ先にその当時の『教育』を繙く。「『教育』を読む会」が地域的に組織され、それは全国に散らばっている。そうしたなかで、ある読む会の中心的メンバーが、「オンライン教育は教育ではない」と主張する書き込みを見て、心底驚いてしまった。そこで、疑問を提起したのであるが、もう少し敷衍して、「教育学を考える」素材として、いろいろと考えてみたい。(A氏とここでは呼ばせていただく)
 人はどういう時に学ぶのだろうか。少なくとも最も効果的に学ぶという意味で考えれば、自分に関心のあることを、自分の意志で学ぶときに、最もよく学ぶ。これは、誰でも認めるだろう。そのことを、「学校のシステム」として実行しているのが、サドベリバレイ校の実践である。(度々触れているのでここでは説明しない。(「教育学を考える5 選択の学びの主体性」http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1607参照)もちろん、教育には多様性が必要であるから、すべてがサドベリバレイ校のようになる必要もないし、そう考えるのは空想的だろう。しかし、この学びの原則は忘れるべきではない。特に、「義務教育」として、学ぶことを強制している学校の関係者はそうだ。そして、学校というシステムそのものが、歴史的には新しい形態であり、現在のような国民教育制度は、たかだか150年の歴史しかない。人間は、学校以外のところで、たくさんのことを学んできたし、義務教育が制度として機能している現代でも、妥当する事実なのである。
 私たちが、振り返れば、自分がどうやって学んでいるかは、たちどころに、いくつも浮かんでくる。学校の授業は確かに代表的なものであるが、読書、新聞・ラジオ・テレビ、手紙の交換、人とのコミュニケーション、様々な組織に参加しての学び、そして、現代ではインターネット等々がある。
 こうした様々なツールや組織を介して、日々学んでいる。それを、特定の形態の「学び」を否定することは、大きな誤りである。学校の教師であろうと、子どもたちが、学校外でたくさん学んでいることを理解し、それを助長するように指導する必要がある。
 ただ、いろいろな学び方があるにせよ、教育が次世代に文化を伝達していくことが、主な機能である以上、人が人に教えることが基本であることは、いうまでもない。先の「オンライン教育は教育ではない」と主張していたA氏は、子どもの実情を配慮した、熱意のある対面での指導が、教育の基本であると書いていたが、そのことは、もちろん正しい。教育の基本は、常に変わらないといってもよい。しかし、基本は変わらないが、基本以外の、また基本そのもののあり方は時代によって変化するし、また、対面の教育という基本を受ける環境にない者もいる。
 コロナ禍で生じた事態は、学校に通う全ての者が、対面の教育を受けられない状況に陥ったわけである。そのときに、子どもたちの学習をどのように保障するかは、重大な課題であり、オンライン教育は最も有効な手段になりえたはずである。残念ながら、日本の実情は、オンライン教育を実施する条件をほとんど整備してこなかった。だから、そういうなかで、オンライン教育をやれと言われて、A氏は反感をもったのだろう。それはわかる。しかし、個々の教師の関わりは考慮せずに考えると、オンライン教育をやる条件は、はるかに乏しいものだという状況は、主には国や自治体の行政の責任であるが、学校の運営にも問題があったと、私は見ている。私が見る限り、ほとんどの小学校や中学校は、IT機器の利用や持ち込みに否定的である。禁止している場合が多いと思われる。ある小学校の教師から、家庭でも、子どもはスマホを8時以降使用してはならない、という規則を作っていると聞いたことがある。家庭での使用まで禁止する権限があるのかと、私は率直に疑問に思うのだが、そのこと自体は、学校で決めたことだろうから、教師も親も従っているのだろう。
 実は、私は退職後、子どもの実情を知るという意味もあって、オンライン塾をしようと考えたことがあった。今では、かえって負担が大きくなりそうで、その意志を捨てたのだが、その準備過程でそのような話を知らされたのだった。もちろん、小学生がスマホをもったら、保護者としては心配な事態はいくらでも起りうるし、おそらく、そうしたルールは親の要請もあるのだろう。しかし、このことから、日本がIT教育が非常に遅れている理由と実態がよく理解できた。
 道具とは、どんなに便利なものでも、使い方を間違えば、極めて危険な性質をもつことになる。物理的な道具だけではなく、制度的な道具も同じだ。しかし、優れた道具を、危険だからといって使わなければ、有効に使った人たちから立ち遅れてしまうことも明らかである。だから、必要なことは、有効で正しい使い方をしっかり教えて、その方向でたくさん使わせることだ。パソコン、タブレット、スマホは、有効な使い方をすれば、非常に役にたつものであることは、誰もが否定しない。それならば、正しい使い方を教えて、どんどん使わせればよい。人間というものは、正しい使い方をして、どんどん効果をあげれば、そういう方向で大いに活用していくものだ。しかも、好ましくない使い方を不可能にするための措置は、きちんと整備されている。
 ところが、多くの学校は、パソコンがたくさんあっても、特別教室において、特別な授業のときにしか使わせない。そういうときに、タブレットを配布しても、限定的な使い方しかさせないだろう。こうした機器は、自由に使わせることが、効果を発揮するものなのだ。
 A氏の発想は、こうした学校でのIT機器の、これまでの使わせ方を背景にしたところから生まれたものだと思われる。学校が、日常的に、パソコンの使用を最大限自由にする、例えば、各教室に1台ずつおいて、授業中に調べさせたり、あるいは、休み時間に自由に使わせるようにしていれは、今回の休校中に、もっとスムーズにオンライン教育を部分的にせよ実行できたに違いない。何故なら、学校でそうした使わせ方をしていれば、余裕のある家庭は、パソコンを子どものために買って、インターネット環境も整えるところが出てきたろうからである。そうした家庭がかなり出てくれば、環境にない子どもたちだけ登校させて、学校で通常のように授業を実施し、それをカメラで配信することで、ネット環境のある子どもは家庭で授業を受けることかできる。そうしたやり方も可能になったのである。 
 私は、全国一律の休校措置は、全く必要なかったと考えているが、たとえそうなったとしても、事情のある子どもを登校させて、学習させることは禁止されていたわけではないし、そもそもそんなことを国が禁止することなど、法的な権限を与えられているわけではないのである。実は、そうした試みをしようとした学校もあると聞いているが、ほとんどの場合、教育委員会が待ったをかけたという。A氏は、このような教育委員会の消極的姿勢こそ批判すべきであったのではないか。
 休校時に、オンライン教育を実行すれば、かなり学習保障ができたと思われるが、それは、今後二次的な拡大が予想されているのだから、やはり、オンライン教育に切り換える準備が必要だろう。
 では、オンライン教育は、通常のときには、意味がないのか。私は、大いにあると思うのだ。ひとつは欠席や不登校の子どもに対して、授業を受けることを保障できることだ。それだけではなく、例えば、授業を教師中心に録画して、(子どものプライバシー問題回避)アーカイブとして蓄積し、復習や次年度の予習に利用できるようにする。更に、非常に授業の上手な教師のアーカイブを全国的に利用可能にして、教師がそこから授業の技を学ぶ機会にすることもできる。学ぶ資料を豊富にする意味で、広い意味でのオンライン教育は、非常に役にたつのである。
 そんなことは空想だというかも知れないが、そうしたことか実践されれば、子どもはすぐに教師を追い越して、オンライン教育資源を活用しだすだろう。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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