旧中仙道旅行1

 以前から、国道を制覇することを、趣味としてやっていた。あまり時間もないので、たまにしか行けないが、これまで、1号、2号、4号、6号、7号、8号、9号、20号を制覇した。もちろん、そのほかにも、125号とかたくさんの関東近辺の国道は制覇したが、江戸時代からの基幹的な道路に添った国道として、中仙道が残っていた。ところが、他の江戸時代の基幹道路と国道の関係は、ほとんど一致しているが、中仙道だけは、ひとつの国道になっていない。17号から始まって、順番に21号までの部分がそれにあたっている。そこで、中仙道を国道にしている道をたどってみようという計画を立てた。
 ところが、最初から、計画が頓挫し、2日目からになった。そして、当初の国道17,18号は帰りに通ろうということで、最初に諏訪にやってきた。下諏訪大社と高島城をみた。

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小室氏結婚問題(一月万冊批判)

 一昨日は、政治的システムの天皇制について、小室-真子結婚後に起きる事態について考えてみた。今回は、今騒動になっていることについて、トピック的に整理してみたい。
 私がけっこうフォローしている「一月万冊」で、普段政権に批判的な姿勢であるにもかかわらず、この結婚問題については、いかにも「理解派」のように語っていることに、少々驚きを感じている。私のスタンスは、個人の結婚問題などはどうでもいいが、皇室利用、天皇利用については、敏感であるべきだということだ。少なくとも、小室氏だけではなく、秋篠宮、そして、彼らを利用しようとしている勢力が、この結婚を契機に、自分たちに都合のよい皇室システムを作り上げようとしていることが問題なのである。小室氏は、そのための非常に都合のよい駒なのだ。そして、自分も最大限に皇室利用をしている。そして、そこに費やされている費用は、ほとんど税金である。こういうことについて、一月万冊の人たちは、まったく気にしていないように感じる。単に、二人の若い人が結婚のために努力しているのに、様々な中傷しているというレベルでのとらえ方だ。そして、メディアが、そういう中傷の先頭をきっているかのように受け取っているらしい。しかし、メディアをずっとみていれば、大手メディアは、ほとんどが皇室批判や、この結婚への異議申し立てなどはしておらず、好意的に報道してきたし、今回の結婚決定で、いよいよその姿勢は明瞭になっている。羽鳥モーニングショーの玉川氏のスタンスをみれば、それははっきりわかる。あれほど、権力に批判的な玉川氏が、この結婚問題については、一貫して、ふたりを高く評価している。もちろん、個々の人をどう評価しようと、それは各人の自由だが、この結婚が、そういう二人の問題ではないということを見逃しているとしたら、それは不見識といわれても仕方ないだすろう。

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日本は本当に能力主義社会か3 能力主義の定義

 では、能力主義とは何か、その意味をまず整理しておこう。 
 まず英語で確認をしておこう。
 研究者の新和英大辞典は、能力主義に対して、a merit system, a meritocracyを例示し、逆に、  meritocracy に、能力主義社会という訳語を与えている。
グロービス経営大学院のホームページでは 
 能力主義 → ability-based pay 
   成果主義 → result-based pay
   実績主義 → merit-based pay
という3つの関連用語に、それぞれ英語を当てはめている。いずれも、給与の支払い方である。経営学としての用語に特化しているということだろう。では、一般の英語辞書ではどうか。

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日教組制度検討委員会報告の検討4 子ども主体の選択と学習

  前回以下の課題を提示して終わった。
 第一に、競争的な試験ではなく、子どもが選択することに、教師たちが賛同できるかという点。
 第二に、競争的な試験なくなって、子どもたちは勉強するのだろうかという点である。
 第一の問題を考えてみよう。これについては、ふたつの大きな転機があった。ひとつは、教師に対する生徒・学生からの授業評価の普及であり、近年は下火になったが、公立小中学校の選択制度である。大学では、学生による授業評価は、ごく当たり前になっている。しかし、それが実際に、何か具体的な対策として活用されているかどうかは、かなり疑問である。私の大学では、本人に結果を知らせる学部がほとんどで、結果を教員全体が共有して、議論する学部はひとつだけだったと思う。しかし、そこでは、評価の高い教員はますます高くなり、低い教員はその逆で、格差が埋まるよりは、拡大することが多く、もっとも重要な評価の低い教員の授業改善には、そうした討議をしても、意味ある結果が出ていないと聞いている。だから、これらはあくまでも形だけの評価にとどまっており、実質的な変化をもたらす評価ではない。例えば、担任を子どもたちが選ぶとか、学校を選ぶという、明確に結果がでることについては、これまで教師たちは拒絶反応を示してきた。学校選択制度が提起されたときには、明確にそうした対応をとった。

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ロックダウンは間違った方法だ

 尾身会長が、ついにロックダウンを可能にする法改正を求めるかのような発言をしたと報道されている。しかし、この一年半、コロナと向きあってきて、政府そして、尾身委員会が、本当に意味のある提言をして、それを実行したということに思い至らない。唯一、ワクチン接種が始まったときに、そのスピードを途中からあげたことくらいか。そのワクチンすら、当初は非常に遅れて、欧米ではかなり進んだ段階で、日本はやっと始められたという体たらくだった。
 八割おじさんこと西浦教授の人流削減政策ばかり強調されて、本当に必要なことは、政策化されてこなかったわけである。それが今でも続いている。
 これまで何度も書いたように、必要なこととは
・検査と陽性者の隔離
・発症者の早期の入院治療
・ワクチン
・家庭で服用できる薬
 こうしたことが政治・行政で行うべきことである。国民は、マスク・三密を避ける・手洗いなどの感染予防を徹底すること。このように、両方がやるべきことをやっていれば、感染はかなり防げるし、また、発症しても、重症化を減らせる。

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日教組制度検討委員会報告(一次)の検討3 入試を廃止するための前提

前回、高校の義務化と公立私立の関係が、課題として残るとして、今回に続けた。
 「国民の教育要求」に依拠するといっても、国民の教育要求は一様のものではないし、また、ぶつかり合う要素もある。また、その要求を実現したとしても、更にその実現が新たな問題を引き起こすこともあるだろう。小学区制が実現したとしても、私立学校との関連という問題が生じる。また、地域総合制高校が、本当に、多様な教育要求を包み込むことができるという問題も生じるに違いない。したがって、現に表れた要求だけではなく、その先を見越した構想が必要となるのではないだろうか。
 当時としては、極めて大胆であった「入試の廃止」を明確に、検討委は提起していた。しかし、それは、徹底した制度構想とはいえなかった。高校三原則を実現したとしても、入試は残るからである。小学区としての入試、更に私立高校の入試が残る。「入試の廃止」である以上は、公立高校の入試だけ廃止しても、あまり意味がない。にもかかわらず、高校三原則の実施に留まっていたから、入試の廃止は、単なる題目で、具体的な制度構想にはなっていなかった。

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小田急の無差別刺傷事件

 信じられないような事件が起きた。混雑している小田急線の車内で、まったく無防備なひとたちを包丁で切りつけるという事件だ。「幸せそうな、勝ち組の女子大生」狙って、誰でもよかった、たまたま近くに座っていた、犯人が勝手に想像した「勝ち組」らしい女子大生が被害にあったわけだ。重傷だが命にはかかわらないということは、幸いだったが、本当に酷い話だ。その後火をつけて、更に被害を拡大しようとしていたらしいが、サラダ油だったために、火などつかず、これはうまくいかなかったのは、よかった。理系で学んだにしては、お粗末だとネットで嘲笑されているが、おそまつでよかったわけだ。ガソリンなどを巻かれたら、とんでもないことになっていただろう。本人は自殺意志があったのだろうか。

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共通テストが民間英語と記述式を諦める

 共同通信によると、ついに、文科省は、共通テストの英語民間試験と記述式問題を諦めることを正式に公表するとしている。「英語民間試験、記述式の導入断念 共通テ、文科省きょう公表」(共同通信2021.7.30)
 今まで、検討していたのかと思うと、その執念は、かなり驚きだが、当たり前の結論だと思われる。50万人の記述の答案を適切に採点することなど、不可能であることは誰にでもわかる。問題の量や形式、そして、採点者の質などによるだろうが、例えば、東大の入試では、過去に一次試験と二次試験に分かれていたとき、すべて選択式の一次試験で定員の3倍まで絞っていた。それは、二次試験はすべて記述式だから、採点の負担を軽減するためであった。それでも、東大入試の場合には、募集単位が6類に分かれており、採点者は毎年行う東大の教官だったことを考えれば、試験の質を保つために、有効な手段だった。当時、一次で絞るのは、機会均等に反するなどという、非常に間違った批判がメディアにあふれていて、ずいぶん浅薄な批判をするものだと驚いたものだが、それも共通一次試験の導入で、形が変わってしまったことは残念である。それでも、二次試験で記述問題を中心にだしていることは、見識である。

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オリンピック雑感5 食料の廃棄と配慮のなさ

 今日はいろいろと忙しかったので、ブログの準備をすることができず、雑感篇とする。
 
・オリンピックで、大量の食料の廃棄が起きていると、TBSが報道したそうだ。その番組はみていないが、一月万冊で本間氏がかなり詳しく解説していた。それは、おそらくTBSで放映されたよりもずっと深刻な事態らしい。つまり、3月段階で、観客が満員になるという前提で、全数さまざまな必要物資を発注する必要があったのだそうだ。そして、その契約は、たとえ、観客が減少して、必要な食料もそれだけ少なくなったとしても、契約量のお金を払うということになっているのだそうだ。もちろん、せめて1カ月前くらいにはっきりすれば、量的な修正はできたかも知れないが、とにかく、無観客に決まったのが、オリンピック開催の1週間前だから、その時点ではどうにもならず、注文した食料がどんどん運び込まれたということらしい。その食料は大会の運営にあたるひとやボランティアのためのものなので、ボランティアが大規模に減らされたので、食料が余ってしまうことになったわけだ。しかし、国立競技場だけではなく、すべての会場で同じことが生じたことになる。

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サロメの聴き比べ カラヤン版のすごさはどこに

 前に「サロメ(オペラ)上演の難しさ 3つの要素」という文章を書いたが、http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=2489 その後、アマゾンで、サロメのスコアを中古で安く入手したので、今度はCDを聴いてみた。そして、スタジオのセッション録音のものに限定して、代表的な3つの演奏を聴いた。ショルティ、シノーポリ、カラヤン指揮のものである。

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