前に「サロメ(オペラ)上演の難しさ 3つの要素」という文章を書いたが、http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=2489 その後、アマゾンで、サロメのスコアを中古で安く入手したので、今度はCDを聴いてみた。そして、スタジオのセッション録音のものに限定して、代表的な3つの演奏を聴いた。ショルティ、シノーポリ、カラヤン指揮のものである。
CDだから、当然、3つの要素のバレエは不要になる。つまり、歌そのものに専念できるわけだ。キャストをあげておくと、
ビルギット・ニルソン(サロメ)
エーベルハルト・ヴェヒター(ヨカナーン)
ゲルハルト・シュトルツェ(ヘロデ王)
グレース・ホフマン(ヘロディアス)
ヴァルデマール・クメント(ナラボート)、他
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
サー・ゲオルグ・ショルティ(指揮)
シェリル・シュトゥダー(サロメ)
ブリン・ターフェル(ヨカナーン)
ホルスト・ヒースターマン(ヘロデ王)
レオニー・リザニック(ヘロディアス)
クレメンス・ビーバー(ナラボート)
ドレスデン国立歌劇場管弦楽団
ジョゼッペ・シノーポリ(指揮)
ヒルデガル・ベーレンス(サロメ)
ジョセ・ヴァン・ダム(ヨカナーン)
カール・ワルター・ベーム(ヘロデ王)
アグネス・バルツァ(ヘロディアス)
ウィールソー・オフマン(ナラボート)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヘルベルト・カララン(指揮)
いずれも優れたオペラ指揮者の録音で、キャストは万全といってよい。しかも、ドレスデンは、サロメ初演の歌劇場であり、ウィーンは、シュトラウスが常任指揮者を勤めた歌劇場である。だから、サロメは頻繁に演奏しているだろうし、特にウィーン国立歌劇場は、多数の「サロメ」全曲録音がある。最近もウェルザー・メストのザルツブルグ音楽祭の演奏が発売されている。
演奏の細かいことは、ここでは書かない。この3つを聴いてわかったことに絞ることにする。
サロメをはじめて聴いたのは、カラヤン版だった。これは当時から、これ以上の演奏は望めないほどだと称賛されていたもので、アンチ・カラヤンも推奨するような評判だった。そして、『レコード芸術』に、この録音に参加したウィーン・フィルのメンバーが、「自分たちがやっている演奏が、あまりにすごいので、鳥肌がたった」という談話を紹介していた。はじめてなので、全体にわたって理解したわけではなかったが、とにかく、ヨカナーンの首が運ばれてきて、狂乱に陥ったサロメが長い、恍惚として歌いあげる部分は、ほんとうに素晴らしいと思った。
しかし、その後、いろいろな演奏で、この部分を聴いても、確かに、素晴らしいのだが、なんとなくのらないのだ。こんな音楽だっけ?という感じがずっとしていた。しかし、カラヤン版のベーレンスで聴くと、やはり素晴らしい。なぜだろうと、ずっと思ってきたのだが、前のブログでいくつかの映像を視聴し、そして、スコアを手に入れて、綿密にCDの演奏を聴き比べてみて、その理由がはっきりわかった気がした。
ちょっと、オペラの形式的な発展を振り返っておこう。
モーツァルトのイタリア語のオペラは、レシタティーボと歌(アリア、重唱、シーン)とに分かれている。芝居を進行させるための台詞は、レシタティーボという節をつけた、ほとんどが早口の台詞となっている。チェンバロやピアノで伴奏し、そこでは指揮者は、指揮せずに、伴奏者に任せる。
ロッシーニもこのスタイルを踏襲しているが、ヴェルディになると、レシタティーボは廃止され、すべてがメロディーがついた歌になる。もちろん、身近な朗唱風な部分もあるのだが。
ワーグナーになると、ずっと歌い続けられるが、そこに多くの台詞が入り込み、音楽はオーケストラが分担し、歌手は朗唱風の台詞を歌い続けることが多くなる。「パルジファル」などは、全編朗唱といいたくなるほど、「歌らしい歌」が与えられていない。
そして、リヒャルト・シュトラウスになると、特にサロメでは顕著だが、台詞か台詞の速さをたもったままで、音楽が与えられ、オーケストラもその速度にあわせて、なり続ける。つまり、ワーグナーでは、ゆっくりだった歌手の朗唱が、シュトラウスでは、しゃべる速度と同じくらいになっているのである。しかも、音程は過酷なくらい、飛ぶ。転調も激しい。
そうするとどうなるか、容易に想像がつくと思うが、台詞に近い歌を、正確に歌いきることが、極めて困難になるのだ。
通常、オペラの台本は、原作が戯曲であっても、オペラに改作したものを使う。作曲しやすく、また歌いやすくするためだ。しかし、サロメは、オスカー・ワイルドの戯曲のドイツ語訳を使っているのだが、シュトラウスが、ワイルドに作曲する許可をえるときに、台詞を一切変えてはならないという条件をつけられたということになっている。つまり、演劇として上演するための台本に、そのまま音楽をつけることが、条件づけられたわけだ。そうすると、当然、台詞としてのスピード感を保持する必要がある。そのために、歌手に与えられた音楽は、非常に素早い速度で、しかも音程を与えられている。
実際に、ほとんどの歌手は、特に動きの激しい台詞調の歌は、音程がかなりあやしくなっている。シュトゥダーやニルソンは、偉大なソプラノ歌手だから、かなり正確に歌っているが、それでも、すごく速かったり、音が大きく飛躍するときなどは、なんとなく不安になる感じなのだ。ところが、カラヤン版のベーレンスは、私が聴いた限りでは、まったく音程のずれがなく、リズムも正確に歌われている。この録音に参加したウィーンフィルのメンバーが、別のところで、「サロメがこんなに正確に歌われるを聴いたのは、はじめてだ」と驚いたそうだ。他の歌手だと、メロディーらしきものがついた台詞と聞こえるのが、ベーレンスだと、ちゃんと音楽として聞こえるのだ。だから、まるで違う音楽を聴いているような気になってくる。これが、ヨカナーンの首を抱えて、恍惚の境地になっている部分のサロメの長大な歌が、感動的に聞こえる理由だった。
カラヤン版では、他の歌手も多くが、やはり、ベーレンスと同様正確に歌っている。特に、ヘロディアスのバルツァと、ヨカナーンのバンダムは、正確で、それだけ音楽的に聞こえる。残念なのが、ヘロデ王で、カール・ワルター・ベームという、すごい名前の歌手は、HMVの検索にかからないから、この演奏くらいしか録音がないのかも知れない。本当は、優れたワーグナー歌手であるルネ・コロが予定されていたのだが、ローエングリンの上演での意見の対立で、一時的に袂を分かっていたときなので、ベームに変更されたという事情があったのだ。代役の割には、すごくよく歌っているが、残念ながら、歌っぽい台詞風の部分が随所に出てきて、ベーレンスやバルツァのように音楽的には歌えていないところかけっこうある。ショルティ版でも、そういう部分はたくさんあるので、ショルティのような厳格な指揮者でも、そういうことは認めざるをえないのだろう。
そういうわけで、このカラヤン版は、今後まず出てこないと思われるほどの水準に達している演奏だと思う。ベーレンスだって、実際の上演では、これほど正確には歌えないと思われるからだ。(ザルツブルグでのライブ録音が出てくると、ほんとうに興味深いのだが)サロメの市販のものは、多くがライブであって、セッションは少ない。そして、セッション録音は、今後はほとんど出てこないだろう。たまにセッション録音がされたとしても、カラヤン、ベーレンス、ウィーンフィル(当時は、まだ優れたオケだった)というような組み合わせが可能になる確率は、ほとんどゼロに近いのではないだろうか。
結論として、カラヤン版が、絶対的に優れた演奏になっているポイントは、正確に歌われているということだった。