教育学を考える26 競争と教育2

 では、どうしたら競争を媒介としない教育が可能になるのだろうか。もちろん、その最大のヒントはサドベリバレイ校の教育にある。しかし、サドベリバレイ校の教育を通常の公立学校に適用することは、もちろん不可能である。もちろん、その精神をとりいれた実践は可能かも知れないが、その幅は小さいに違いない。
 したがって、競争をやめるためには、制度改革が必要となる。では、どのような改革が必要なのか。ここでは、まずは実現性はひとまず無視して、考えられることを書いておこう。

 何よりも必要なのは、競争を促進する最大の仕組みである「入学試験」を廃止することである。私が学生のとき、教育法の講義をした兼子仁教授が、講義の最後に、「日本の教育にとって、まず必要なのは、入学試験の廃止である」と述べたのだが、そのとき、まさか、そんなことが可能なはずがない、と思ったものだ。おそらく、現在でも多くの人は、そう思っているに違いない。しかし、その後教育制度の研究をするようになって、日本のような入学試験は、先進国ではほとんどないことを知り、そもそも入学試験が存在しない国が多数あることを知った。兼子先生は、そういう事実を踏まえての発言だったのだろう。つまり、入学試験がない国はたくさんあるのだ。だから、もちろん、廃止は可能である。入試がないということは、卒業試験が進学資格に相当するということだ。つまり、高校卒業試験に合格すれば、全員大学入学資格を得ることになる。もちろん、そのことによって、大学の偏りなどが生じるが、このネット時代に、これまでのような大学入学定員などを維持する意味があるのだろうか。ネット時代に相応しい、大学の在り方を考えれば、入学試験などは、むしろ大学の発展にとってマイナスになると考えるほうが、妥当である。入学試験があれば、当然学校で学ぶ以外のことに、かなりのエネルギーをとられることになる。しかし、卒業試験であれば、普段学んでいることをきちんと修得すればいいのだから、学校の授業そのものが、もっと効果的になるのである。
 
 第二に、カリキュラムの最大限の自由化である。それには、学習指導要領をずっと、簡略な、大綱的なものにしなければならない。戦後アメリカ占領軍によって導入された学習指導要領は、「試案」だった。そのときには、非常に詳細なものだったが、拘束力がなかったのである。そして、1958年に「法的拘束力」があると文部省が宣言し、その後、全国学力テスト問題のなかで、法的拘束性が訴訟で争われ、最高裁判決で、法的拘束力を認めたが、「大綱的」でなければないとされたのである。そのため、多少、項目が整理されたが、実際には、「解説」という膨大な文書がだされ、教員採用試験などは、その「解説」を踏まえて出題されている。もちろん、教科書検定もそうだ。
 問題は、そうした詳細な国家基準によって強く規定されいる教育がもつ意味である。
 端的にいえば、そういう教育から、未来の社会が要求する人材は、育たないということだ。つまり、学習指導要領は、未来を潰しているといってよいのだ。それは、ふたつの理由による。
(1)現在も既にそうだが、未来は、社会の在り方はますます多様になっていき、多様な資質や能力が求められるようになる。しかも、現在では未知のこともでてくる。したがって、国家が統一した基準で学ぶことは、そうした多様性への対応能力をみずからすり減らしているようなものなのだ。起業したり、クリエイティブな分野で活躍する人材を多くだしているサドベリバレイ校をみればわかるように、縛りを排したほうが、多様で創造的な能力が育つのだ。
 これは、「創造的な学校」という著書の作者ケン・ロビンソンも、異なった面から主張している。つまり、ある底辺校で非常に荒れていた学校を建て直した校長の原則が、どんな生徒でも、その生徒が大事にしている領域を認め、尊重するということだ。もちろん、その多くは学校教育のカリキュラムとは無縁のものである。しかし、自分が価値あると思っていることを認められることが、如何にやる気を引き出すかが実感される。
(2)詳細なカリキュラムの国家基準は、教育そのものを形式化する。その悪弊は既に授業のなかで頻繁に見られる。「考える」「対話する」というような、かなり意外性があり、思わぬところに展開するようなことが、極めて形式的な「考えているような様子」「対話しているような態度」をとらせることで、そのことによる発展などを無視して、形だけが整えられる。そうした実践を何度も見てきた。このようなことを繰りかえしていけば、育つ思考力や対話力も形骸化してしまう。
 戦前のすみずみまで国定教科書によって内容や方法が規定されていた戦前の教育のなかから、生活綴り方のような創造的な教育手法が生まれたのはなぜか。それは、作文の領域だけは、国家基準が存在しなかったからである。しかし、いまは、作文についても、指導の標準化が進んでいる。作文とは、思考することでもあるが、そうした指導では、そうした積極的な側面も枠づけられてしまう。
 
 第三に、様々な能力を、徹底的に平等な価値をもつものとして扱うことである。
 競争は、当たり前のことだが、同一の基準で行われる。そして、学校社会では、学力という基準が主要な価値になっているので、学力競争が熾烈となり、受験がそれを激化させる。もちろん、1960年代から80年代までと、現在を比較すると、学力基準、あるいは偏差値の占める位置は、相対的に低下している。それは、少子化による大学全入が強く影響しているが、子どもたちの将来像が多様になり、かつその実現可能性が拡大しているからである。以前、運動能力が優れ、プロになろうと思えば、野球と相撲程度しかなかった時代から、いまでは、多大な収入をえられるプロスポーツは、比較にならないくらい拡大している。芸術芸能分野も同様だし、更に、youtuberやeスポーツなどという、以前にはなかった分野まで、人の人気の職業になっている。つまり、かなりの程度、既に学力中心の価値観は、学校に通っている世代においても、崩れてきているのだ。教師たちが、このことを正しく理解して、更に、教室で軽んじられている子どもたちのもっている、ユニークな資質をきちんと評価し、皆に認めさせることかできれば、そして、そういう教室になれば、学校がストレスを生まない、もっと互いに尊重しあえる空間になるに違いない。
 
 競争を媒介にする教育から脱出しなければ、日本の将来は、なかなか明るいものにはならないのではないか。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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