小山田圭吾問題再論

小山田圭吾氏が辞任を迫られて、とうとう辞めた。彼の担当した音楽も採用されなかったことになったようだ。しかし、これで、一件落着というわけではない。そもそも、何故彼のような人が、多様性尊重、障害者スポーツの祭典の開会式の音楽担当になったのか。だれの責任だったのか。組織委員会は、小山田氏の反省で済まそうとしたが、結局内閣官房が世論を気にしたのか、自分たちの価値判断なのかはわからないが、介入して、辞任させたという「政治」の介入が適切だったのか。そして、そもそも、オリンピックやパラリンピックが、本当に掲げている理念にふさわしい行事であるのか、そういうことが総体として議論されなければならない。また、小山田氏がいじめをしたという和光学園の教育の実態も問題にされねばならない。 

 こうした点を総括的に、整理してみたいと思った。
 そのきっかけには、普段けっこう聞いている一月万冊で、かなりこの問題を扱っており、特に、安富歩氏との対談が、鋭い指摘をしている一方、肝心な点についてはあいまいにしたままの議論、そして、小山田氏を批判するひとたちへの非難をしていることについて、触れておきたい。
 清水有高氏と安富氏は、何よりも、小山田氏を採用するような組織委員会や、それを推進している菅政権の問題こそ批判しなければならず、小山田氏のやったことは許されないことだが、現状は、逆に小山田氏へのいじめになっているとしている。そして、彼を育てた教育、和光の教育についても批判してければならないとしている。では、どうすればいいのか、それはガンジーが唱えた非暴力のやり方である、という。
 しかし、肝心の非暴力的な対応が、今回の小山田問題については、具体的にどのようなやり方をすることなのかは、まったく語っていない。私からみれば、いろいろあるとしても、ネット上の批判は、「言論」であるから、非暴力的な対応であるといえる。何も、暴力を使って小山田氏や組織委員会への圧力をかけたわけではない。それに、政府が動かされたということだろう。そして、このネットの非難がなければ、組織委員会も政府も、彼を留任させ、彼の音楽がながされたわけである。
 もっとも、小山田氏のような人物が作曲した音楽が、開会式で流れることこそ、オリンピック・パラリンピックに相応しいし、そのことで、オリパラの本質が世界に明らかになってよい、という見解もないわけではない。しかし、オリパラの本質がそこにあるとしても、世界中がみている前で、そうした行事が行われることが、オリンピック反対の人間にとっても、好ましいとは思えないのである。少なくとも、1964年のオリンピックにすら批判的であり、今回のオリンピックは、招致そのものへの反対を明確にしてきた私にとっても、避けるべきであると考えたのである。とするならば、小山田氏には辞めてもらうしかないし、そうするためには、あらゆる言論による圧力をかける以外にはないのである。その最後の点を素通りする安富氏には、高見の見物をしているような姿勢を感じてならない。
 
1 小山田氏の行った行為は、けっして「いじめ」の範疇に留まるものではなく、明らかに、「犯罪」の域に達している。現在では時効だろうが、被害者からの告訴があれば、確実に有罪になったろう。一月万冊では、子どもだから、法律的に裁かれることはない、として、加藤官房長官の「適切な措置」発言を非難していたが、これは二重の誤りである。まず、小山田氏のいじめ(犯罪)は、高校生のときまで継続しているので、少年法でも、犯罪を構成する。したがって、子ども時代のことは問われないというものではない。次に、加藤官房長官のいったことは、辞任を迫ったということであって、法的な制裁をせよといったわけではないだろう。
 そして、彼の最大の問題は、26歳という、りっぱな大人になって、二次的いじめともいうべき、雑誌上で自慢話をしたということだ。そして、ネット上でもっとも強く非難されていたのは、この点だ。そして、そのことによって、その後ずっと、小山田氏への非難が続いた。そんな話をしなければ、ほとんどの人は知らないままだったし、世間的な話題になることもなかったのである。そして、その非難の連鎖は、当然本人によって認識されていたのだから、目立たない場での活動はともかく、これほど問題になっていて、国民的に批判されているオリンピック・パラリンピックの担当者になれば、蒸し返されることは、目にみえていたはずである。案の定そうなった。ということは、引き受けた当人の責任もかなり大きいということだ。
 
 
2 組織委員会の責任と政府の介入 
 小山田氏を選出したのは、誰なのかについて、武藤事務局長は、21日に、「任命責任は我々にあるが(制作チームは)仲間や気心を知れた人たちでやらないといけないので、チームが選んだ人をそのまま任命した。報告があった時にチェックすべきだったと言われれば、その通りだ」と説明している。
 19日には、「緊急会見をした際、組織委は小山田氏の過去のいじめについて幹部も制作チームも一切知らなかった」と回答していたのである。そして、何故すぐに、小山田氏を辞任させなかったのかについて、ひとつには、小山田氏が反省していること、日程が迫っていることをあげていたが、更に、「小山田氏が辞任すれば我々も降りる」と主張した制作メンバーがいたという情報が流れていた。それに対しては、21日の記者の質問に対して「そのような事実を聞いたことがない」と答えた。 
 橋本会長は、21日のIOC総会で、選出した段階では、過去のことは全く知らなかったといっている。
 さて、こうした話を信用できるか。事実としたら、組織委員会の運営責任者たちは、完全に無能なひとたちだということにしかならない。重要な人物を国家的な事業の重要なポストにつける際して、しかも、高邁な理想を掲げて、公費で運営している事業であるのに、その人物の調査をせずに任命するなどということは、あってはならないことだろう。まるでリスク管理の意識がないとしか思えない。小山田氏の専門的力量を判断できないとしても、人物として社会的に問題の要素がないかどうかのチェックはできる。だれかに命じれば、すぐに出てきたことだ。
 調べて、その事実をつかんだにもかかわらず、任命したとしたら、彼らは、オリンピックの理念など、鼻から無視していることを意味する。
 また、制作チームが小山田を降ろすなら、みんな辞めるといったのは、おそらく事実ではないかと思われる。何故なら、仲間として選んだからだ。そういう圧力をかければ、降ろすわけにはいかないだろうという、判断もあったに違いない。そして、そのように報道もされたのに、「知らない」というのは、脱力感しかない。
 官邸の介入はどうなのだろう。
 もちろん、官邸が酷い人物を降ろすように命じたのは、よかったなどと、単純に考えるわけにはいかないだろう。明らかに、これは政治的な介入であり、学術会議では、りっぱな人を排除し、今回は、りっぱではない人物を排除したという、反対の現象ではあるが、政治介入があってはならない領域に介入したという点では、共通である。政府が介入しなければ、組織委員会ももう少し時間かせぎをして、結果的に時間切れをねらったのだろう。しかし、おそらく、そうはいかなかったに違いない。というのは、ますます小山田氏への非難が強くなり、そして、彼をかばう組織委員会への非難も強くなったからであり、そのぎりぎりのせめぎ合いの結果、開会式そのものが中止になった可能性がある。私としては、その方がよかった。世間の小山田非難の結果、そうならないように、政府が動いたということであり、逆にいえば、世間の批判を、政府が、要求をいれることによって、更に被害が拡大するのを抑えこんだことになる。
 
3 和光学園
 もうひとつの重要な問題は、和光学園の教育に関してである。
 「女性セブン」に、小山田氏の同級生なる人物が登場して、イタビューに応じて、小山田氏がいつも集団で動いていて、近寄りがたかったということ、たしかに、いじめをしていたようだけど、あのような酷いいじはは聞いたことがなく、事実なら学校が問題にしていただろう、おそらく、小山田氏自身が、雑誌で大げさに盛ったのではないか、という趣旨の発言をしている。https://news.yahoo.co.jp/articles/c65b0800729024a3bd27e99dfd1db97af3d36e14
 それに対して、多くのコメントがついていたが、真実は当人しかわからないということだろう。ただし、次のことはいえる。
・今回、最大の問題としてあげられているのが、26歳という大人になった小山田氏が、雑誌でみずからのいじめ(犯罪)を自慢げに語ったということであるから、盛った内容かどうかは、二の次である。
・このインタビュー記事が、その後継続的に問題となったが、今回も含めて、本人が、あれは誇張したもので、実際には、あのようなことはやっていない、という「否定」はしていない。
 女性週刊誌をとやかくいっても仕方ないが、和光学園を守りたいひとたちが働きかけた記事のように思われた。「荒れていた」という風評があるが、そんなことはなく、穏やかな雰囲気だったと、卒業生が語っていることで、そのことを感じる。ツイッターには、「荒れていた」とする卒業生の記事も少なくない。時期や集団によって、事実の把握が異なることはあるだろう。しかし、芸能人の子どもが多く、芸能人の活動を奨励援助する学校のやり方を紹介した文春の記事をみれば、有名芸能人の子どもである小山田のような生徒が、傍若無人に振る舞うことは、容易に想像がつく。
 そして、ホームページのトップに、「寄付」の要請が書かれているのには、驚いた。そんな私立学校のホームページをみたことがなかった。芸能人の子どもの優遇と寄付の重視とを考えれば、和光学園の民主主義や自主性と多様性を重んじる教育が、本当に実行されているかどうかについては、やはり、疑問をもたざるをえないのである。
 和光学園が、当初高邁な理想をもって運営されていたことは、よく知られている。そして、障害者を一緒に教育するインクルーシブ教育を実践していたことも、知る人ぞ知ることだった。しかし、インクルーシブ教育というのは、そんなに簡単に実行できるものではない。新卒の教師たちのほとんどが、最初に悩むのは、教室にいる発達障害の子どもの対応である。40人近い子どもたちがいて、更に、特別な指導が必要で、ときには、まったく秩序をかき乱す子どもが加わると、新人教師には、学級全体をまとめることなど、ほとんど不可能になる。そして、現在は、ほとんどのクラスに発達障害の子どもがいるとされる。その子たちを特別にみる補助がいれば、かなり軽減されるが、そうした保障をしている自治体は、ごく稀である。
 特別支援教育という言葉が示すように、特別な支援が必要な子どもたちに対して、なんら特別な支援の人と資金を配慮しなければ、特別支援教育は成立しないのであって、ただただ教師に負担が増すことになる。
 和光学園は、インクルーシブ教育を掲げているから、おそらく、ほとんどのクラスに障害をもった生徒が配置されているのだろう。すると、運営のリーダーが、どれだけ理想的な考えをもって対応するように指導しても、通常の教師の配置では無理があるのだ。理想を実現するためには、それだけの資源の割り当てが必要なのである。
 寄付の使い道が、インクルーシブ教育充実のためであるならば、おそらく、小山田のようないじめをする以前に、対応ができているだろう。しかし、文春に紹介されている芸能人優遇の教育が本当だとすれば、お金のかかるインクルーシブ対応よりは、お金を集められる芸能人優遇に力点が置かれてしまい、インクルーシブのほうはおざなりになっていると考えてしまうのである。実際は、直接の話をきいたことはなく、ネットの情報だけなので結論的なことはいえないのだが。
 丸木政臣氏の著作を注文したので、それを読んでから、この点については再度考察してみたい。
 
 結局、一連の動きが示していることは、オリンピックが掲げている理想などは、オリンピックを動かしているひとたちにとっては、なんら意味をもっていないということだ。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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