共同通信によると、ついに、文科省は、共通テストの英語民間試験と記述式問題を諦めることを正式に公表するとしている。「英語民間試験、記述式の導入断念 共通テ、文科省きょう公表」(共同通信2021.7.30)
今まで、検討していたのかと思うと、その執念は、かなり驚きだが、当たり前の結論だと思われる。50万人の記述の答案を適切に採点することなど、不可能であることは誰にでもわかる。問題の量や形式、そして、採点者の質などによるだろうが、例えば、東大の入試では、過去に一次試験と二次試験に分かれていたとき、すべて選択式の一次試験で定員の3倍まで絞っていた。それは、二次試験はすべて記述式だから、採点の負担を軽減するためであった。それでも、東大入試の場合には、募集単位が6類に分かれており、採点者は毎年行う東大の教官だったことを考えれば、試験の質を保つために、有効な手段だった。当時、一次で絞るのは、機会均等に反するなどという、非常に間違った批判がメディアにあふれていて、ずいぶん浅薄な批判をするものだと驚いたものだが、それも共通一次試験の導入で、形が変わってしまったことは残念である。それでも、二次試験で記述問題を中心にだしていることは、見識である。
もちろん、誰でも認めることだろうが、学力を本当に吟味すること、そして、実質的な学力を形成させるためには、選択式のテストよりは、記述式のテストのほうが適切であることはいうまでもない。だから、共通テストとして、記述式を取り入れようとした、その意図は評価できる。しかし、それが実行不可能であれば、実際に形をとったとしても、歪みが出てくることは避けられない。世の中にはできることとできないことがある。記述式のテストを実行するためには、その採点者が、問題とその解答を知悉していること、複数の採点者がいれば、採点中に必要なだけの打ち合わせが可能であること等が満たされなければならない。共通テストの最初の案は、それらがどれも満たされておらず、大量のアルバイトが採点することになっていた。そうすると、問題の作り方をも制約し、記述式だからこそ可能な設問も不可能になってしまうのである。要するに、無理なのだ。
英語で、複数の民間試験機関のテストを採用するというのは、もっと大きな問題を孕んでいたことは、既に指摘されているので、ここで詳述する必要はないだろう。どうしても利権が絡んでいると思われても仕方ない側面があった。
センター試験や共通テストが、基本的におかしいのは、それだけで試験を完了できる形をとっていたことである。だから、そこに記述問題をいれるなどという、無理な発想が持ち込まれるのだ。
共通一次、センター試験、共通テストと名称や形は変わってきたが、そもそもこのテストが、どういう形、位置を示すものなのかは、常に曖昧だった。大学入学の資格試験であるという位置づけをしたいという意見もあったし、これが競争試験の全体でありうるという形をとりたいという意見もある。それに対して、各大学が行う二次試験の前段階という見解もある。実態は、第二、第三の思惑が複合しており、共通テストの点数で合否を決める大学もあるし、二次試験を実施して、それぞれを勘案して合否を決める大学もある。何のための試験であるのかが明確でない試験など、受ける側としてはこまったものだ。私は、共通一次より前に大学受験をしたので、自らの経験がないのだが、外部からみても、いつも定まらない試験だなと思っていた。
今回、文科省が、大学の個別入試で、しっかりと記述式など、実力を試せる問題をだすように促すとしているのは、その限りで評価できる。その代わり、共通テストの正確を明確にすべきである。少なくとも、国立大学は、原則二次試験を実施するべきだろう。
しかし、私自身の原則的立場は、競争的入学試験の廃止なので、共通テストが残るとしたら、大学入学資格試験として、すべての大学進学希望者が受験し、基準満たしていることを示すものとしてである。