教員採用試験の受験者が減っていることが、またまた報道されていた。数年続いている低下傾向に歯止めがかかっていないということだ。私は、20年近く前から、つまり、教員人気が高い時期から、やがて日本でも教師の人気が低下し、教員不足が生じることになるだろうと主張してきた。実際に、現場では、定年退職しても、希望する限りずっと教員として継続できる自治体が少なくない。つまり、教師不足は既に始まっているといえるのである。
欧米では、ずっと前から教員不足は深刻な社会問題であった。もっとも、国よって多少の相違があり、私が1992年にオランダに行ったときには、まだ教師は人気の職業だったといえる。長女(小学校5年生)の担任は、採用2年目で、採用試験について教えてくれたが、そのときには、30倍以上だったという。日本と違って、採用は学校単位で行われるために、採用人数は1~3名程度であって、他で採用されなかったひとたちは、集中するから倍率が高いという事情はあるが、全体として、小学校の教師になるのはけっこう難しいといっていた。そして、書類選考で選抜されたあと、実際に子どもたちを前に、1時間の授業を行い、それを審査員たちが後ろでみている。そしてその後面接があるということだった。
オランダの小学校教師の養成は、高等専門学校(日本では4年制の学部にあたる。)で、戦前の日本では師範学校に相当する。教師になるための専門的教育機関であり、最終学年は、ほぼ実習にあてられる。それだけで教師になる資格をえられるが、娘の担任は、更に大学に一年通ったということで、それが有利に働いて採用されたと語っていた。
しかし、当時、既にイギリスなどで、教師不足が深刻になっており、外国人であっても、自国の教員免許をもっていて、英語がしっかり話せれば、だいたい採用されるという噂であった。なぜ、それだけ不足しているかというと、希望者が少ないだけではなく、教師がかなり多数辞めていくからだった。移民・難民の子どもが多く、言葉も十分に通じないなかでの教育だから、当然荒れが酷くなり、教師が疲れてしまい、辞めてしまうわけである。更に深刻なのは、教師の自殺も毎年複数起こっていた。
しかし、日本では、とくに、団塊の世代が退職する少し前から、大量採用が始まり、教師になりやすい状況が生まれ、かつ、バブルがはじけたあとの長い経済の停滞で、民間企業の採用が控えられたという状況のなかで、教師の人気が高まり、大学で小学校教職課程がたくさん設置されることになった。人気があったために、しばらくは、なかなかの激戦だったが、そのうち、急速に人気は低下を始めたのである。
私がずっと前から、やがて教師不足になると危惧したのには、いくつかの理由がある。
まず教職課程を履修することの経済的負担が増大したことである。戦前の教師は、小学校教師の社会的地位から考えれば、優秀な人材が集まったと言われている。それは、師範学校は、学費がかからず、就職が保障されていたのが、理由のひとつであった。戦後は、師範学校はなくなったが、かなり長い間、育英会の奨学金は、教職につくと、返還が免除される特典があった。しかし、その特典はなくなり、逆に、教職課程の履修には、特別徴収される費用がかかる。私の大学でも、教育学部は学費が他よりはるかに高かったし、その他の学部で、教職課程をとるには、少なくはない履修費が必要であり、とくに小学校の場合には、けっこう高額だった。もちろん、それは特別な費用がかかるからであり、大学が利益をえていたわけではないが、学生にとっては大変だったろう。
私は、教職につくことによる奨学金返済免除制度を、ぜひ復活すべきであると主張したい。職業による差別ではないかという意見もあるだろうが、ひとつには、教育水準をあげることは、国民全体にとっての利益であり、また、国家が運営する学校で学費免除の教育機関は、他にもある。教職は、単なる技術的職業ではなく、人間を相手にするものだから、大学教育の自由と、専門的職業教育をあわせもたせる意味で、奨学金の扱いについて、特別な扱いを認めることには、十分な根拠があるといえる。
第二に、教職免許取得の条件が厳格化されてきたことである。これは、単位や授業内容の増加だけではなく、個々の授業で行うべきことが基準化されることにも現れている。具体的には、現在教職科目には、コアカリキュラムという到達目標が設定され、それを遵守しないと、大学としての課程認定を受けることができず、また、教員の業績もチェックされる。それは、必要な面もあるが、学校現場、大学、行政機関三者の協力によって、作成され、改定されていくべきもので、そうした協力関係が十分になされていないと、大学としては押しつけられた感がぬぐえなくなり、適切な運用から外れてしまう危険性もあるわけだ。
そして、それ以上に問題なのは、教員採用試験のある側面における形式化である。かつて、教員採用試験の問題は公表されていなかった。それは、公表するほどりっぱなものではないという理由が、教育委員会からなされていたものだ。しかし、今は、ほとんど公表されるようになっている。そして、かなりの改善がなされていると、私は思う。しかし、他方、本当に実力をみることができる小論文や面接などが、形式化している。形式化とは、ここでは、書くべき内容や答え方が、予め想定されるような問いになっているという点だ。小論文とは、論題には結論を想定せず、自由な発想で書かせることが必要だが、教員採用試験の小論文は、「近年~~ということが言われている、それについてどう思うか、また、それを実現するために、あなたはどういう取り組みをするか」というような問題が典型になっている。つまり、~~の内容については、肯定することが求めら、それを前提に、どういう取り組みがという設定になっている。たとえ、~~に否定的であったとしても、それを率直に書くことはできないのである。しかし、~~の内容は、学習指導要領に書かれていることがほとんどだが、学習指導要領自体が時代によって変化するものだ。ゆとり教育をみれば、否定しようがないことだ。従って、学習指導要領の内容であっても、小論文である限り、否定的な見解を書くことができ、論理的にしっかりしていれば、高得点をあたるという寛容さが、試験をする側に求められるはずである。しかし、そうした寛容は、次第になくなっているのである。
あるいは、そうしたことへの反省からか、小論文を課さない自治体もでてきている。それはそれで問題だろう。
こうした形式化の結果は、採用試験の準備の勉強が、形式的なことを訓練するだけの、無味乾燥なものになりがちであり、そのことが教職の魅力を著しく阻害しているのである。
第三に、教師になってからの締めつけの強化である。研修制度の強化と免許更新制に端的に現れている。新しく教師になった人たちに、初任者研修は、一見歓迎されているように思われているが、実際に詳しく話を聞くと、かなり自由と時間を奪われ、研修担当の教師とあわない場合も少なくない。また、研修を担当する教師にとっても、余計な時間を奪われることになり、負担となるだろう。こうした研修もまた、「形式化」というべきであって、もっと自由で実効性のある方式に転換する必要があるのだ。
そして、免許更新制は、だれにも歓迎されない制度といえるだろう。最近千葉県知事が廃止を訴えていたが、誰もがそう思っている。当初から矛盾だらけの制度なのだ。強制的な研修でありながら、有料自己負担であり、実施する大学も、やりたくてやっているわけではなく、文科省からやるように言われているから、仕方なく実施している感じがある。ほとんどは講義形式だから、この更新講習を聞いて、教師の教育力量があがるとは、あまり思えないのである。現場で教育委員会が実施する官製研修の講演会よりは、自分で講習を選択できる分よいが、他の専門職には、このような免許更新制度はほとんどないわけだから、教職にだけ強制することは、差別的扱いといってもよいくらいだ。
そして、第四に、教職の人気を押し下げている最も大きな要因だといえるのが、労働条件の極端な悪化である。いまや公立小中学校は、日本最大のブラック職場と言われているほどだ。教師がいかに長時間労働をしているかは、よく知られているが、それでもなお、超過勤務手当ては一切だされていない。わずかな特別手当てが出ているが、正規の超過勤務手当てに比較すれば、微々たる金額といえるだろう。そして、そうした経済的な要因だけではなく、超過勤務の内容が、およそ教育活動とは離れたことに、多くが割かれているという点だ。事務的な報告書の作成、アンケートの実施、部活指導、本当に必要かどうか疑わしい行事の準備・実施、そして、過度な保護者対応等々。こうしたことが、教師を疲弊させており、それが知られるようになって、教職への魅力を低下させている。
更に、教育活動そのものへの管理的手法が導入され、創造的な教育活動がしにくくなっている。その代表例が、各種「スタンダード」なるものが決められて、ものごとのやり方が型にはめられる用になっていることである。教育活動とは、個々の子どもたちの状況に応じて、臨機応変に対応すべきものであって、スタンダードなるのものの押しつけは、非教育的にならざるをえない。そして、多くのスタンダードが、子どもたちの「行動様式」の画一化をもたらしており、個性豊かな子どもたちを育てることと、完全に背理しているのである。
そして、第五、最後に、社会における教師への厳しい目・理不尽なまでの教師攻撃である。たしかに、教師の不祥事は少なくないかも知れない。しかし、そうした不祥事の少なくない部分が、教師が置かれいるストレスが、少なからず影響しているともいえる。もっと、教師のゆとりが尊重され、創造的な教育活動が保障されていれば、不祥事はかなり少なくなると断言できる。もちろん、教職は、一般的な労働よりも、強い倫理的規制が必要であることはゆうまでもない。しかし、教師を常に監視の目でみるような社会的雰囲気は、教師を萎縮させ、ストレスで精神的ダメージをあたえている。
例えば、教師には、給食指導があるために、昼休みをとれない。かつては、とれない昼休みを労働時間の後ろにあて、帰宅時間をその分早めていた。しかし、なぜ教師は早く帰宅するのかという住民のクレームをきっかけに、今や全国的に、帰宅時間を早める措置が撤廃されている。その結果、単に昼休みがとれないという、労働の過酷さが強まったのである。そういうことが、多々ある。これは典型的な住民の無理解による労働条件の悪化である。
その結果、教師たちの精神疾患は非常に多くなっている。これは、教育そのものを悪化させる以外のなにものでもない。被害者は子どもたちである。
以上のようなことが、教職の人気低下を招いたのである。教師に人材が集まらなくなれば、それは社会にとって、大きなマイナス要因となる。上記のようなことを改善して、教職人気を取り戻すことが必要である。